2016年03月25日

【160112】売れたときに備えて、行動指針を定めておこう。

売れたときに備えて、行動指針を定めておこう。
こういう狂気のトラタヌがおのれを奮起させるものだ。
1 儲け話、借金依頼は門前払い。
2008年にそう決めたが、問答無用、これを堅持する。
2 「相談」は有料とする。
弁護士や税理士などの利用者としての経験値が高いのでよく相談を受ける。今後は「業務」として受託する。1時間1万円、場所は八王子のエイトビート。
3 役員・役職に就任しない。
責任が発生するいっさいの役職には就かない。
4 面会しない、来客を受けない。
志の実現に資する案件以外は面会しない。メールなどで済ませる。
5 紹介しない、紹介されない。
これも志の実現に資する案件のみ。
ーーと結界を張った。
世の事象を観察すると、ポジションを維持できずに転落してしまう人たちはこうした予防線を張ることに無頓着である。
落人としてまがりなりにも再起を期すことができるのは、こうした未来に対する想定をつねにしてきたからであろう(とはいえ、それが甘かったから落人になったのだが)。
取らぬ狸の皮算用?
たしかにそのとおり。
嗤わば嗤え。自分でも嗤ってしまうくらいだ。


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【160111】過去に2度、寝ても覚めてもという「没頭」を体験したことがある。

過去に2度、寝ても覚めてもという「没頭」を体験したことがある。
1度目は大学2年の秋、学習塾で起業したときだ。
山梨県大月市の古びたビルの一室。2間の1つを教室、もう1つを事務室として使っていた。
事務室にはもらってきた古畳を敷いて、その上にコタツを置いた。寒さ厳しいなか、よく泊まり込んでは教材や募集チラシを作ったものだ。
2度目は29歳のとき。銀座1丁目にある恩師の会社の片隅を間借りした。
世が元旦だろうとゴールデンウィークだろうと無関係。眠気に耐えられなくなると、床にシーツを敷いて毛布をかぶった。
仕事を終えた夜更け、自転車で皇居前広場、北の丸公園、靖国神社を走り抜けて帰宅した。その爽快感は、いま思い出しても身震いがする(だが、記憶はそれくらいで、当時の心情というものがちっとも思い出せない。なんだか自分のこととは思えない。何かに取り憑かれていた。そういわれるほうがしっくりくる)。
そして、3度目が「いま」である。寝ても覚めても原稿書き。生業をなかば放り出して、日夜没頭している。
「いま」も後になると、実感のともなわない日々なのであろうか。
「ほんとに俺がやったのか?」と振り返ることになるのだろうか。
そのときは隣で寝息を立てている坊やが証人になるだろう。この熱狂を覚えていて、私に昔語りしてもらいたい。
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【160110】「穴熊宣言」をしたとたん、なぜか訪客が相次いでいる。

「穴熊宣言」をしたとたん、なぜか訪客が相次いでいる。
昨日は名古屋から会社の先輩、今日はお世話になっている大学教授が京都から。来週あたりで調整している件が一つ。
だが、ひとついえることは、ひじょうに「上質」であるということ。
上質なんて言い方はやや品が下がるかもしれない。だとしたら、志に直結している人間関係とでもいおうか。
こういうものなのだろう。目に見えない因果関係や脈絡というものはまちがいなく存在する。
その鉱脈にいかにしてコンタクトするかが人生攻略の要諦なのだろう。そしてそれは「真空」をつくるということでしかどうやら得られない。
冗長肥大化してきている人間関係を断ち極限まで絞り込むと、そこに真空が生まれる。
そこに求めている関係性が流れ込む。どうやら、そんなふうにできているらしい。
この法則に気づき、安定回路を構築した人たちがいわゆる成功者となっているようである。これは、15年間のラジオインタビュアー経験を通じて得た学びの最たるものだ。
だが、わかっていても行動できるものではない。行動を起こせる自己を確立する。まずはこれが先決だ。
ダイエット、断酒、オナキン。なんでもいい。成果をあげることで、エネルギーを充填することだ。
放出していては、いつまで経っても立ち上がることはない。
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【160109】過日、酒を飲んでみた。瓶ビール1本と日本酒1合を1時間半ほどかけて恐るおそる。

過日、酒を飲んでみた。瓶ビール1本と日本酒1合を1時間半ほどかけて恐るおそる。
飲みたくて飲んだわけではない。飲んだらどうなるのか、この段階でそれを試してみる必要があると考えたからである。
結論からいえば、どうということはなかった。
久々に飲んだビールは高校時代の味わい。麦芽の香ばしさがなつかしかった。
うまいといえばうまかったが、そこまで。やはり飲みなれているほうがうまく感じるようだ。
日本酒のほうがいくぶん感慨深かった。あまたある酒のなかから一つだけ飲んでいいといわれれば、日本酒を選ぶだろう。
ともあれ、飲酒実験は無事終わった。その後もつつがなく飲まずにいるところをみると、断酒は定着したといえよう。
それにしても、飲む前の緊張感はなかなかであった。
若かりし日に、仲間と連れ立って悪所に足を運んだとき以来かもしれない。
年をとるということは、こうしたドキドキを失っていくことなのだろう。
それはもはや、おのれに求めにくい感覚かもしれない。
坊やの心と身体を通じて、代理体験をするほうが愉快に思える。
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【160108】思い起こせば、私のフェイスブック観は木下裕司によって初期設定された。

思い起こせば、私のフェイスブック観は木下裕司によって初期設定された。
裕司は著者として、ネットビジネスジャンルの本をよく書いている。私の番組にも出演してもらっていた関係で、彼からフェイスブックを紹介されたのが始まりだ。
そのとき彼がいったのは、「フェイスブックは儲かる。とにかくたくさん友達をつくって、記事を書いて、いいねをつけてもらうべき」というものだった。
彼はじっさいそのとおりにやって、早々に友達を5000人つくっていた。
私にはそこまでやる興味と気力はわかなかったので、成り行き任せにしていた。
だが、いまこうしてフェイスブックを省みると、裕司が言っていたのは、どうやらフェイスブックの「マルチビジネス」的活用法なのだろう。
ネットワークをたくさん構築し、そこに景気のいいネタを流して信奉者にしていく。この手法はマルチビジネスではよく行われる。
フェイスブックへの取り組みにおいて煮え切らない思いがあったのは、どうやらここに淵源があったようである。
ちなみに私はマルチビジネスはやったことがないが、どちらかというと肯定的である。
いまは亡き船井幸雄先生からじかにご教授いただいて認識が改まった。
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【160107】10年前の私は、毎日遊ぶほかなかった。

10年前の私は、毎日遊ぶほかなかった。
日々飲みあるき、しょっちゅう旅をして、また飲み食い。寄り集まってはまた飲み食い。
生活に困っていればまだよかった。それならば懸命に働くしかないからだ。
有閑おやじの「ゆとりライフ」は、当人にとっては、じつはのんきなものではない。
人生賭ける対象も見出せぬまま、憂悶やるかたない日々を送ることは、働き盛りの男にとって心身の毒でしかない。
今後、私のような手合いが増えてくるだろう。食うには困らぬが、燃焼する対象もなく遊んでばかりいるおやじ。
フェイスブックで楽しそうな様を公開して、いいねを糧に生きたとしても、有閑おやじの心に吹きすさぶ寒風はやむことはない。
燃え尽き症候群ならぬ「不燃症候群」ーーこれがいずれ社会現象となり、社会病理となっていくだろう。
燃焼する対象が得られぬことを苦にして精神を病んだり、犯罪に走ったりする。そんな時代を前に、我々は何をすべきか。
処方箋は遊びはむろんのこと、趣味でもない。
世のため人のために何ができるか。それを考え行動することではないか。
天賦の才の発揮のしどころを求めて、真田幸村は真田丸を築いた(ドラマはみてないけど)。
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【160106】フェイスブックとは何か? それは「飲み会」である

フェイスブックとは何か?
それは「飲み会」である
ーーこれが私の行きついた答えである。
タイムライン上に現れる友人たちとのおしゃべり。あれ食った、どこ行った、誰と会った。いずれも飲み会の話題だ。
「こんど連れてって」「OK!」といった空虚なやりとりから、酔客の暴言まで、リアルの飲み会と変わらない。
こういう視点でながめてみると、フェイスブックをさかんにやっている人たちは飲み会好きだし、飲み会好きはフェイスブックによく投稿している。
私が飲み会から足が遠のき、それと同時にフェイスブックからも遠のいていったのは当然の流れだったのかもしれない。
さて、フェイスブックが飲みの席だということになると、私がフェイスブックで行ってきた言動は非常識であるといわざるをえない。
いってみれば、飲み会の席で滔々と自説を展開するようなものだからだ。
だが、思い返してみると、私は飲み会でもそういうことをしてきた。
これでは、飲み会の作法をわきまえていないと非難されてもしかたがない。
自論を述べたいのなら、酒の席ではなく、しかるべき場で行うべきであったと反省している。
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【160105】いよいよフェイスブックのタイムラインを見なくなった。いまや1日1回程度であろうか。

いよいよフェイスブックのタイムラインを見なくなった。いまや1日1回程度であろうか。
坊やの世話に忙しかったこともあり、寸暇を惜しんで仕事をしていたことが幸いした。暇でなければSNSもできない。
思えば飲酒も同じであった。暇だったから飲んでいたのである。
橘川幸夫氏の著書『暇つぶしの時代』が刊行されてもう15年になる。
本書で描かれたことがいま、つぎつぎに現実のものとなってきている。
通勤がない。取引先や顧客との接点がない(じっさい私は取引先のアップルの担当者ともコンテンツの購入者とも面識がない)など、仕事をめぐっての一大「労働環境革命」が進んでいる。
我々は知らず知らずのうちに「ヒマ人」になってきているのである。
この隙間に何が入り込むかといえば酒でありSNSである。
これらは暇つぶしの材料としては有能で、「それなりの意味」を付加することができる。だが、これが厄介だ。
時間と労力とカネ(オフラインでのつきあいやお出かけ)を投入して、記事というそれらしいエセ作品を生み出すことができる。これが「免罪符」になってしまうからである。
サラリーマンならまだいい。これが自由業ともなるととめどもない。どこまでも亡国の遊戯にまみれることができる。
私は労働環境革命のフロントランナーであった。
同時に、革命の初期段階によく現れる、そそっかしいお調子者なのであった。
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落人日記 (117)


4歳の坊やとかれこれ1週間合宿生活している。
世の男の子がお母さんべったりの時期ではあるが、私とウマが合い、いっしょにいることを好む。
家内が里帰りするのにも同行せず、私と仕事場で日々過ごしている。
三度のご飯の支度からシモの世話まで何かと忙しいが、彼との生活は楽しい。
これだけまとまった時間を子供と過ごすことはなかなかできない。やってみてわかったことは、育児はたいへんであるということ。
四六時中みるのと、空いた時間にかわいがるでは雲泥の差。経営者とバイトなみの違いである。
世の母親が保育園に預けたがるのもわかる。仕事のがよっぽど楽だ。
このあたりの温度差は、夫婦間の諍いの元となるのだろうなあ。
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落人日記(116)


この1週間でケータイの受着信が3件。メールもほとんど来ない。ありがたいことだ。
起業した2000年頃、1日に受着信が30回、メールも30通はくだらなかった。当時はそれが誇らしかった。
いまはこの静けさが誇らしい。ガチャガチャとやりとりせずとも、稼働しているという証左だからである。
若いころの活発なコミュニケーションは行動の糧になる。だが、歳をとってからのそれは苦痛の種になる。
加齢による体質変化を踏まえて切り替えないと、40代後半あたりでクラッシュしてしまう。
いきなり移行することはできないから、コミュニケーションを着実に減らしながらも、質の高い仕事ができるように一歩一歩整えてゆくべきであろう。
それに際して、SNSの扱いについて方針が定まらない。
広く門戸を開いておくべきか。それとも、あらかじめ制約を加えておくべきか。
先達たちの取り組みを調べて、それを取り入れることにしよう。
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落人日記(115)


年初ということで、1年の抱負を考えてみた。
1 呼びかけない。主催しない。誘わない。
2 会わない。人脈を広げない。参加しない。
3 遊ばない。出歩かない。興味を持たない。
いずれも、人生後半を迎えるなか、志に生きる男としては妥当なところであろう。そろそろ、まじめに生きたいのである。
思えば、これまでの人生、無為無用無駄なことばかりしてきた。もう遊ぶだけ遊んだ。
もはや心残りはない。心残りどころか、もううんざりである。
抱負のとおり、無味乾燥な日々を送ることで、人生の滋味を見出したい。
正岡子規は「病牀六尺」からだから世界をみることができた。
動き回っていては、静思できない。ひとまず静寂のなかにどっぷり身を沈めることだろう。
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落人日記(114)


変な時間に目が覚めた。午後11時40分、元旦を迎える20分ほど前だ。
今ごろ紅白歌合戦の勝敗が決して、ゆく年くる年が始まる時間であろうか。
今年は家内と娘は里帰り、両親は旅行なので、坊やと二人で年越しだ。
とはいえふだんと変わらない。坊やも大晦日の意味なんてまだわからない。私と一緒に7時に寝て、いまもすやすや寝息を立てている。
過日「記念日を撲滅する」と宣言した。
一年の計は元旦にあり。元旦を記念日にしないことで、1年を無事、平常運転で乗り切れる。
「きょうは特別」とやっていれば、とめどもなくなるのが現代の消費社会だ。その術中にはまらないためにも、お正月こそ淡々と送るべきだと考える。
せっかくの早起きだ。そろそろ仕事にかかるとしよう。
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落人日記(113)


いつの頃からか、背中のコリがひどい。心臓の裏あたりだ。
この筋は大胸筋と左手薬指につながっているらしく、コリがひどいとこれらも緊張するのか違和感が強まる。
両者の関係は把握していたのだが、これに頚椎の状態が絡んでいることを発見したのはつい最近のことである。
首を曲げるとけっこう痛みがあり、これが背中の筋肉に作用しているようだ。
問題の頚椎についてはせいぜい加齢による支障程度に思っていたが、じつは明瞭な原因があった。原因とは、枕の高さであった。
正確にいえば枕ではない。私は高校生のころから、バスタオルを丸めて枕がわりにしていた。
暑いときは気持ちよく、いつでも清潔。さらには高さが自在なので、とても重宝している。
だが、寝ながら読書するくせがあり、それが習い性になって、いつしか枕を高くするようになっていた。これが頚椎にダメージを与えたようである。
そこで1週間ほど前から、枕を低くしてみた。すると覿面。首には若干痛みが残るものの、背中のコリも指先の違和感もだいぶ緩和した。
かように、身体というものは関係しあっている。デブだったときは贅肉が多すぎて、そうした因果関係がよくわからなかった。
余計なものを除去することで、物事の本質は見えてくる。
これは身体にかぎらない。暮らしぶり、人間関係、仕事などについても、余計なものを排除することで、本当にたいせつなものが見えてくるようである。
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落人日記(112)


近くの薬屋のおばさんは職業柄、健康にくわしい。おまけにおしゃべりなので、お客の課題についてこと細かに説明してくれる。なので、しまいには薬がいらなくなってしまう。
最近便秘がひどいので、その薬屋に出向いた。すると「コーヒーとかお茶を飲みすぎるとカチカチになるのよね」といきなり図星。
「ダイエットして痩せたあとの冬場とか」とまたもや図星。
「コーヒーやお茶を減らして、お水とか白湯とかたくさん飲めばよくなるのよね」と薬無用のアドバイス。
とはいえ何も買わぬのも無慈悲だと思い、当初予定の漢方便秘薬を購入した。
こいつを飲まずにすませたい。まずは白湯とやらを試してみることにした。
お湯とのちがいは、沸騰後、5分程度煮沸する点。これで余計な物質が除去されて、デトックス効果のあるピュアな飲料になるのだそうだ。
つくって飲んでみたが、意外と飲める。うまいとすら思える。
白湯というだけで茶事のようだ。我が日常にこだわりは無用と考えるが、丹精込めることは肝腎だと考える。
5時以降は白湯にしよう。以前なら飲み始めた刻限に、こんなものを喫するとは思いもよらなかった。
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落人日記(111)


子供と一緒にいると、世間様とはじつにあたたかいものであることに驚かされる。というより、ふらつく中年男に世間は冷たいというべきか。
たとえば寂れたローカル線の小駅を訪ねたとしても、中年男ひとりでいるか、かたわらに子供がいるかでは人の見る目がまったく違ってくる。
昨日今日と、坊やと新潟を旅した。新津鉄道資料館が主目的であったが、行きに、池袋で開催された鉄道模型展、帰りは鈍行でえんえんと帰ってくるという鉄旅であった。
道中、坊やはおじさんおばさんから食べ物をもらったり、頭をなでられたりする。鉄道員もシールをくれたり、皆さん何かとあたたかい。そのたびに父の私もにっこりする。
見知らぬ人とのこうしたコミュニケーションはもう長いことなかった。というか記憶にない。
歳をとり、いつの間にか、外の人びとを「敵視」するようになっていた。これがすれたということなのだろう。
こっちがそういう気配を出しているから、向こうさんだって親しみ深くなろうはずもない。かくして、寒々とした空気が流れるのである。
そういう軋轢を、もののみごとに解毒する子供の存在は得難い。
もはやひとりで旅に出たいという気持ちも萎えた。だが、坊やとともに世間と向きあうことで、今まで知らなかった世間にふれられる。
「老いては子に従え」というが、この言葉の意味もあるいは、歳をとったら、子供の旅にお供せよという意味なのかもしれない。
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落人日記(110)


原稿を一巡させるたびに2割程度削ることができる。このペースであと2巡すれば、新書の分量に落とし込めそうである。
昨年は家族企業の面倒にあけくれていた。その前の数年は、原発事故を受けての疎開やら、子育てやらに忙殺されていた。
30代の私はいちおう事業家であったが、実質的には酔客であった。
思えば30歳前後の数年しか猛然と仕事に取り組んでいない。こんなていたらくでは人生は終われぬ。
ということで、今年は一念発起。数年来あたためてきたテーマについてまとめ始めた。
私の人生の主題は「男が元気溌剌に生きてゆくための心得と術」である。
司馬遼太郎の小説の解題、村上春樹の小説の対偶という位置づけであろうか。要は男の生き方を考え、共有してゆきたい。
ただし、そんな主題で妻子をやしなうのはなかなか難しい。
ようやく今年初頭から諸事おさまり、いよいよ取り組める状況が出来した。
この一年の断酒やらダイエットやらはそのためのコンディションづくり。本番はこれからだ。
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落人日記(109)


「あいにくの雨」というが、私にとっては心躍る雨だ。なぜ世の人びとは、こんなに雨を嫌うのだろうか。
昔ならわかる。舗装されていない道はドロドロにぬかるみ、歩くのにたいへん難渋した。
いまのような衣類もなかった。衣服には、あっという間に雨が染み込み身体を冷やした。へたに風邪をひいたら死にかねない時代だ。
山中でいきなり雨に見舞われたら、雨宿りする場所もない。大木のうろや岩屋、ましてやお堂などはそうは見つかるものではない。
こうした時代の雨のしんどさは察するに余りある。
思うに、こんにち人びとが雨を厭うのは、この時代の気分の残滓によるのではないか。
先祖代々、「雨はいやなもの」と言い聞かされているうちに、なんとなくそうだと思い込んでしまった。
実感をともなわないまま、社会的刷り込みは行われる。こういうものに敏感であると何かと疲れるし、周囲からも孤立するから、鈍感なほうが生きやすいのかもしれない。
本質を見極める眼とは、そうしたまやかしを見破る洞察力をいうのだろう。
だが、しょせん共有しあえるものではないから、こうして物することで溜飲を下げるほかない。
なんでこんな話になったかといえば、きょう坊やと新潟へ行く。
現地は雨だということだが、この時代、さしたる障害ではない。そんなことを言いたかっただけである。
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落人日記(108)


酒のかわりに飲みはじめたコーヒーが中途覚醒と頻尿の原因だった。
豆を挽いて淹れたコーヒーは酒に伍する味わいだ。だんだん濃いものが好みになってきて、このところエスプレッソのようなものをよく飲んでいた。
2時起きを第一に考えると、コーヒーも慎まねばなるまい。7時寝なので、今後は午後3時までとしよう。
あわせて緑茶もカフェインが多いので、これもほうじ茶に切り替えた。
これらを試してみたら、中途覚醒と頻尿があっさりと解決した。身体をめぐる因果関係があきらかになってきてなにやら楽しい。
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落人日記(107)


すっかりフェイスブックのタイムラインを見なくなった。フェイスブックページに退去した副産物といえばこれであろう。
以前から、ちょっと見すぎてるなあと思っていたのでちょうどいい。この機会にフェイスブックから距離をとりたい。
成功したいのなら「成功者」の真似をせよという。着る物から仕草まで真似てしまえというのである。
私は司馬遼太郎や村上春樹(じつは小説はそんなに読んでないが)を尊敬している。
司馬遼太郎はすでに物故しているが、同時代人であったとしても、フェイスブックをやっているとは思えない。村上春樹も同様である。
なので、私もそれにならうことにする。とはいえ、いきなり姿を消すのは乱暴だ。徐々にフェードアウトしてゆくことにしよう。
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落人日記(106)


盛り上がりのない毎日を送りたい。刺激に乏しく、アップダウンのすくない日々を。
そのためには、大勢で集まったりしない。新しい出会いを避ける。出歩かない。見聞を広めない。
判で押したようなルーティン生活を繰り返すのだ。
世の中裏腹なものだから、こう望むといい出会いがあって、刺激的で盛り上がってしまうことがよくある。
だが、私にとっての「僥倖」は、もはや美女や美酒とのひとときではない。
「人生の大事」の実現に直結する展開のみを期待している。
おっと、6時半になろうとしている。そろそろ歯を磨いて、寝床に入るとしよう(この日記は前夜に書いているのです)。
posted by 雄峰 at 10:34| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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