2016年03月25日

【160201】何のはずみか、坊やが「お酒飲んだら?」などと口走った。

何のはずみか、坊やが「お酒飲んだら?」などと口走った。あまりにも唐突だったので、文脈は覚えていない。
そもそも断酒のきっかけは、坊やの「お酒飲まないほうがいいよ」というひと言であったことを思えば、このひと言をもってして解禁としてもいいのかもしれない(いまのところ、そのつもりはないが)。
だが、もはやこの段階になると、酒を飲む飲まぬという話はどうでもいい。
断酒をきっかけにして、私はそれまでの「世界」を抜け出してしまったからである。
「世界」というのはたんに時空や交友関係をさすのではない。生活習慣、思考癖、行動指針などで織りなされた「自己」のことである。
その自己において「別のところ」にスリップした感がある。
最近、村上春樹ばかり読んでいたから、ついこんな妄想をしてしまうのだろうか。
坊やのひと言も、羊男の託宣のように思えてくるし、自分も周囲の人びとも作中人物に見えてくる。
そう、人生が「物語」に思えてきた。これが近い。
これは一種のパラノイアなのかもしれない。だが、日常に物語を感じるほうが人生は充実したものになる。
脚本家はどんなシナリオを書き、監督はいかなる演出をほどこそうとしているのか。それを察知して、みずから演じる。自己を放擲し「役」に憑依する。
村上春樹は「小説はすぐには役に立たないが、そのうち立つかもしれない」という主旨の発言を『村上さんのところ』でしていたが、あるいはこういう効能をいっているのかもしれない。
posted by 雄峰 at 11:13| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160131】ベッキー問題というのが出来しているらしい。不倫か何かしたみたいね。

ベッキー問題というのが出来しているらしい。不倫か何かしたみたいね。
甘利大臣も何かしでかしたようだが、いずれも私及び家族に直結する問題ではない。だから関心を持たないことにした。
司馬遼太郎は折々「余事にかまけるな」と作中に込める。
上記のニュースなどは、私にとって余事でしかなく、こんなものに関心を持っていたら、時間がどれだけあっても足りない。それだけではない。精神の平衡も損なわれてしまう。
こんなことを言っているが、10年くらい前は違った。
ベッキー問題について語り、甘利大臣問題について講釈していただろう。
その後、それがめちゃくちゃかっこ悪いことだと知ったから、興味を持たないよう自分を戒め、そうしているうちに、しだいに興味そのものがなくなってきた。
もっとも、人が何に興味を持とうと自由だ。好き好きでやればいい。
だが、そのとき、一つだけ肝に銘じておいたほうがいいことがある。
それは「許せない」という言葉はつかわないことだ。
つまり、ベッキーあるいは甘利大臣に対して「許せない」とは言わないほうがいい。
なぜなら、許すかどうかは当事者や関係者だけの権利であって、それは部外者には付与されていないからである。
「許せない」と思うのなら、よけいなことは言わずに、「許せない」行動をしないよう、みずから範を示せばよい。
この手の「断罪癖」はいずれ自分を裁くことになる。
無関係の者どもから「許せない」と罵詈雑言を浴びてはじめて目が醒めるときには、すでにおおくのものを失ってしまっていることだろう。
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【160130】焦っている。15日から売り込みを始めると宣言しておきながらろくに動いていない。

焦っている。15日から売り込みを始めると宣言しておきながらろくに動いていない。
公言したので、小当たりに一件動いてはみたが、スムーズにことが運ばなかったので沙汰止みとなった。
それはそれでいい。つぎの手を打つまでだ。
問題はつぎの手を「いつ」打つかである。放っておけば、原稿をさらに錬磨する日々を送ることになる。これはこれで尊い作業だ。
いま直面しているのは、「どの段階で完成」とするかである。それに確信的な見解がない。
これが締め切りがある仕事なら話がはやい。だが、いま私が手がけているのはそういう類のものではない。
いってみれば「芸術作品」である。誰から依頼されたわけでもなく、自分で勝手につくり続けている。
こういう作品の「完成」をどこに設定したらいいのか、これは業界人よりも、他業種であってもアーティストに尋ねなければならない問いなのかもしれない。
こういう煩悶も今ならではのもの。記しておいて、後日読み返して苦笑いしよう。
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【160129】村上春樹作品をかため読みしている。

村上春樹作品をかため読みしている。これまでエッセイはよく読んできたが、小説はろくすぽ読んでいなかった。
まだ10冊ほど読んだ段階だが、感じたことを記しておきたい。
村上小説の主人公は「規則正しさ」と「礼儀正しさ」という2点が共通している。
むろん、これは村上春樹自身の生き方を投影したものだろう。
主人公は、突如現れる「事件」をこの2つを崩すことなく、安定したものへと変質させてゆく。
これは、村上春樹自身が属している団塊の世代に対する、彼のスタンスが表れているようにも思う。
この年代は行儀が悪く、不規則生活者(バブルで遊び歩いていたのはこの年代だ)である。
村上春樹は団塊の世代の幼稚な生態に、結果的にアンチテーゼを投げかけることになっているように思える。
彼らは村上小説の主たる読者ではないのだろうが、皮肉なことに、「子育てで失敗した」とされる彼らの子供たちが主たる読者層になっているようだ。
とくに傷ついた若者が、村上作品を愛好する事情もわかる気がする。
極度の精神的混乱状況に追い込まれた主人公が「礼儀正しさ」と「規則正しさ」をもってして、しだいに安定を回復してゆく様は、彼らの心をも安定させてゆく効果もあるはずだ。
内田樹もコテンパン時代、喉を通ったのは村上作品だけだったと書いている。
まだ、取り掛かったばかりだが、初々しいこの時期に感想を残しておきたいと考えた。
さて、読書に戻ろう。
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【160128】目の前の事象をいかに「解釈」するかで、困難を乗り越える。たとえ、悲劇に見舞われようと、それは自分が成長するための糧。その事象をいかに「解釈」するかで乗り越えることができるーーそんな内容の本が昨今受け入れられているようである。

目の前の事象をいかに「解釈」するかで、困難を乗り越える。たとえ、悲劇に見舞われようと、それは自分が成長するための糧。その事象をいかに「解釈」するかで乗り越えることができるーーそんな内容の本が昨今受け入れられているようである。
私はこの考え方には違和感がある。
なぜなら、いくら「解釈」を変えようとも「行動」が変わらなければ、何も状況は変わらないからだ。
「解釈主義」は怠惰に流れやすい。頭脳だけの作業で事足りるという安逸さは、具体的に身体を動かすことを厭わせる。
「行動主義」ならそうはいかない。酒を断つ、走る、書くなど、行動をともなうから、自分に対して情け容赦ない。頭で考えた言い訳なんて一刀両断してしまう。
だからといってむやみに動き回っても、「解釈主義」の延長線上だったりする。
「精神力が足りない」と自省した遊び人がナンパ修行に精を出す、なんてことになってもなんの解決にもならない。
では、どうしたら、「行動主義」に立脚することができるのか。
ヒントになるのが、田坂広志先生の「狭き門より入れ」という言葉だ。
二択を迫られたときにあえて「イヤ」と思うほうを選ぶ。
この鍛錬は効き目がある。「解釈主義」の真逆を採用しなければならないことがほとんどだからだ。
その鍛錬の結果、西郷はおのれを「西郷隆盛」にしていった。
英雄は「丸くなる」のではなく「丸くしてゆく」のである。
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【160127】善因善果、悪因悪果。因果関係に根ざして生きることが、戦略的に生きることにほかならない。

善因善果、悪因悪果。因果関係に根ざして生きることが、戦略的に生きることにほかならない。
思わぬ幸運に恵まれたら自重する。不幸に見舞われたら、この先の幸運に期待する。
私が行ってきた断酒やダイエットなどは、この因果律を手元に引きつけ、人為的に運命を操作しようという営みであるといえる。
ところが、この感覚が欠落している人がいると知り、いまさらながらとても驚いている。
「3連勝したから、次も勝つだろう」
「失敗続きだから、次も失敗するだろう」
彼らはこんなふうに考える。私には皆目わからない。
株式投資はやめたが、みんなが絶望的になると買い、ノリノリになると売ってきた。
アベノミクスで上がってきたときに外貨も含めすべて売り払い、その売却益でいまの仕事場マンションを購入した。
今後は株や為替なんぞに煩わされたくないので、金輪際手を出さないが、そんな投資法は投資の神様バフェット流なのだということだ。
話が逸れた。
因果律に対する「帰依」、これが私のいわば宗教心ともいうべきものかもしれない。
高橋御山人とウマがあうのは、こうした「宗教心」が酷似しているからなのかもしれない。
因果律をつねに意識しているから、我々は貪らない。行き過ぎれば制動をかける。過剰は剥奪の元。
「貪り」と「慎み」、これらの按配にその人の戦略が表れる。言い換えれば、貪る者には戦略など必要ない。
コイン掴み取りでおおいに掴んで、手が抜けなくなる。そんな道化者は街の人気者だが、とうてい私にはできないなあ。
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【160126】司馬遼太郎は「自尊心」についてこう語った。

司馬遼太郎は「自尊心」についてこう語った。
「真の自尊心があれば、頭を下げるときに下げられる。そこで変な意地を張ったりしない」
たしかこんな主旨だった。
一方、自殺、貧困、引きこもりに陥る若者たちに共通するのは「自尊心」の低さであるという。
これと、先の司馬発言を絡めると、
謝れないと自滅する。
ーーこういう図式が成り立つ。
謝るということについては、私はかなり前から平然と行えるようになっていた。早くからビジネスを手がけていたことが大きい。謝れないと商売なんてできないからだ。
だが、司馬のいうところの「ニセの自尊心」時代には、たしかに謝れなかった。意地を張って自滅したものだ。
謝れると、自分を追い込むことがなくなる。
ひとたび謝ったからには、ボールは相手に渡っているという気楽さもある。
だがこれができないと、自分ですべて抱え込むことになる。これはたいへんな重圧である。
そう考えると、若いころにしゃあしゃあと謝れる訓練を積んでおくことは、自分を追い込まないための予防策になるかもしれない。
ひところ、裁判で負けるから謝るなという愚かしいことがいわれていたように、世間全般的に謝るの(というより譲歩)を忌避する傾向が強まっている。
そんな時代の気分をもろに受けてしまった幼稚な人びとが自滅に向かうのもむりもない。
「自尊心を持て」といわれて、「はい、明日から持ちます」なんて言える人はいない。
まずは、謝ること。言葉を換えれば譲歩するという具体的行動を、機会があるたびにとってみる。
こんなことから「真の自尊心」が醸成されてくるのかもしれない。
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【160125】孤独死した人たちには、共通の口癖というのがあるらしい。

孤独死した人たちには、共通の口癖というのがあるらしい。
それは「人の世話になりたくない」というものだ。なお、ここでいう「人」には子供や親族も含まれる、というより主に子供のことをさす。
この言葉だけみれば、殊勝な心がけといえるかもしれないが、さにあらず。
これは「おれは人の世話にならないから、世話もしないよ」という決意表明とみるべきであろう。
60歳で孤独死したある男は40代でリストラされた。そのとき彼は、「家族に迷惑をかけるから」といって離婚して行方をくらました。
まともな人間であれば、この言い分に異常性を感じるはずだ。ふつうなら、家族に迷惑をかけないように、再就職なり起業なりして奮起するものである。
だが彼は、ここぞとばかりに「しがらみ」を断ち切って逐電してしまった。
「迷惑をかけるから」というのは言い訳で、要は「逃げたくなった」という気持ちに素直に従ったというだけの話ではないか。
「やりたくないことをやらない」ではさすがに通用しない。そこで美辞麗句が免罪符になる。
「迷惑をかけるから」「世話にはならない」といった言い訳や弁明は、ひと昔前なら、「ばかも休み休み言え」と一蹴されたであろう。
現代社会の恐怖というものは、こんな言い訳が通用してしまうところにある。
先日も、女子高生の遅刻の理由がひどいと2ちゃんでみたが、たしかにひどかった(ぜひご覧あれ)。
孤独死者も遅刻女子高生も、自分の言い訳が通用しているのは「自分」だけであるということがわかっていない。
聞かされている相手は納得していないのに、自分だけ納得している。この乖離が、社会に出たときに表面化してくる。
言い訳で欺けるのは、愚かな自分だけなのである。
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【160124】家内が患った。膝がひどく痛むという。

家内が患った。膝がひどく痛むという。直後、ネットニュースで「これだ!」という記事を発見した。
運動不足でぶらぶらしていると発症する「隠れ炎症」が流行っているらしい。いうならば「怠け病」である。
国会議員の秘書だというので、よほどの働き者だろうと思って見合い結婚したら、とんでもなかった。家内ほどの怠け者はこれまでの人生でみたことがない。
我が両親と3世代同居しているが、その理由も「そのほうが楽だから」というものだった。
当初はその怠惰ぶりに怒ったり呆れたりしていたが、最近はそうでもない。
というのは「妻」としてはともかく、「母」としてはむしろ怠け者のほうがよいと知ったからである。
へたに働き者だと仕事にかまけてしまい子供によくない。子供にとっては、母親はいつもいるほうがよいにきまっている。同居する爺婆、隣近所の親類縁者の存在も子供にとっては大きい。
仕事と育児、現代人にとっては仕事のがよっぽど楽だ。育児など、よほどののんびり屋でなければつとまらない。子供にふりまわされながら、単調な1日を送れるのは一つの能力であるといえる。
家内は家計に貢献しようという気持ちはさらさらないが、そんなものは私が稼いでくればいいだけのことだ。
どこで何をしていようと、何も言ってこない放置ぶりも最初は寂しく思ったが、志に目覚めたいまの私にはありがたい。
そういう点で、我が夫婦は変な感じでうまくいっている。
働き者は常在戦場、前線でバリバリ働く。怠け者は銃後でのんびりと育児と親や近所とのつきあい、そしてテレビをみながら1日を終える。
こうした分業はむかしは一般的であった。
だが、核家族化の進展と男女雇用機会均等法施行あたりから様相が一変した。
洗い物から育児まで、あらゆる家事がタスク化され、それらを同等に受け持つという陳腐な思想が蔓延してしまったのである。
働き者が存分に働き、怠け者が存分に怠けながら共存する。
いま求められるのは、「男女」共同参画社会ではなく、そんな「勤怠」共同参画社会ではなかろうか。
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【160123】いずれ酒を飲むことになるかもしれない。

いずれ酒を飲むことになるかもしれない。
そこで元の木阿弥にならぬよう、いまのうちに方針を定めることにした。
1 人前では飲まない。自宅の庭か書斎、仕事場のベランダかこたつ、あるいは旅先の飲み屋でひとり嗜む。
2 酒席では飲まない。酒を交えての席にはできるだけ出ない(出てもノンアル)。
3 飲んだことは明かさない。むろんフェイスブックなどには書かない。断酒看板は下げない。
4 1回あたりせいぜい2単位(ビール500ml、日本酒1合が1単位)、時間は1時間まで。
5 先々、利休が茶の湯を創出したようなひとつの「酒」の体系を確立するべく、料理やしつらえなどを凝らしながら「道」を確立するための機会にする。
何ごとも方針なく関わると、あとあとよろしくない。
出来しかねない危機に対して丸腰は危険だ。
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【160122】不眠のことを調べていたら、面白いことがわかった。

不眠のことを調べていたら、面白いことがわかった。
中世ヨーロッパでは、人びとは夕刻眠りについてから、一度起き出して活動したという。
友達の家に行って語らったり、街で遊んだりしたというから、なんとも優雅ではないか。
昨年末以来、7時寝に取り組んでいるが、どうにもうまくいかない。たいてい9時か10時あたりに目が覚めてしまう。そのまま仕事にとりかかったり走りに出て、夜更けにもう一度寝につく。これは、中世ヨーロッパのスタイルだったのだ。
さて、上場企業の経営者の半数が睡眠薬を服用しているという。本当かどうかはわからないが、それもこの話と絡めることができる。
歳をとると、連続睡眠ができなくなるし、ましてや経営者のようにワクワク(「重圧」「ストレス」と感じる経営者ではそもそも不適格ではないか)する仕事に就いていれば、寝ていてもすぐに目覚めてしまうのだろう。
かといって、そのまま起き抜けてしまえば、翌日の昼間のスケジュールに響く。
経営者たちはやむなく夜間眠るほかないのである。だからやむなく睡眠薬を飲む。これが実相ではないか。
2回眠れるのは幸せであったのだと知って、このところ苦にしていた「睡眠障害」を克服できた。物は考えようといういい例だ。
これが酒飲み時代だったら、2度晩酌してしまっただろうな。
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【160121】原稿がひと段落したとたん、生業のコンテンツビジネスに大きな注文が入り、日がなCDを焼いている。

原稿がひと段落したとたん、生業のコンテンツビジネスに大きな注文が入り、日がなCDを焼いている。こういうときは、YouTubeの動画を固め視聴するにかぎる。
私がみるのはたいていドキュメンタリーだ。昨日は、女性の貧困と引きこもりをテーマとしたものをかなりみた。
貧困に陥っている女性には共通点があって、それは「夢を追いかけているが、実態がともなっていない」というものだった。
たとえるなら、「東大、最低でも早慶に入りたいが、偏差値が今のところ40ちょっと…」。こんな感じだ。
これだけなら、世の中にたくさん該当者がいるが、彼女らが特異なのは「多浪」している点である。6浪、7浪しているような感じなのだ。
執拗さは成功に不可欠の要素であると、司馬遼太郎先生はよくおっしゃる。
そこまでの執念深さがあれば、思いを実現できそうなものだが、彼女らは浪人は繰り返すが、ふだんはあまり「勉強」をしていないように見受けられた。
つまり、執念深さと淡白さが混在しているのだ。
この習性はどこで植えつけられたのか?
それはまぎれもなくテレビであろう。
じっさい、NHKの番組に生出演していた女性タレントはつい口をすべらせた。
「テレビとかで映し出されているのは商品化された世界であってーー」
その後は濁されたが、「真に受けてはならない」だったのではないか。
そう、素朴な子がテレビで見た夢物語を実践してしまった結果というのが実相のようだ。
これは何も女性にかぎった話ではない。ピュアなおやじも罹患していて、生活に困窮している。
本件を語る番組に出演するセレブリティたちがどこか奥歯に物の挟まったような言い方をするのは、夢物語のリアルを熟知した上でのし上がってきたことに対する後ろめたさによるものだろう。
そのあたりまで語れるのなら、テレビをみる価値があるのだが、それは無理な注文というやつだろう。
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【160120】過日遭遇した慈善おじさんが「不登校児を学校復帰させるためにがんばっている」というので、私はついこう言ってしまった。

過日遭遇した慈善おじさんが「不登校児を学校復帰させるためにがんばっている」というので、私はついこう言ってしまった。
「彼らは未来の起業家だったり、アーティスト(アーターではない)だったりするんで、あんまりかまわないでやってくださいね」
刺激せぬように言ったつもりだが憤然とされた。思ったことをそのまま口に出すのは、私の悪い癖だ。
さて、世の中には、学校の勉強が向いている人もいれば、向いていない人もいる。
司馬遼太郎は「学校」をつねに恨み節で語ったし、村上春樹もけっして心地よい場としては語っていない。
私は母校(桐朋中高)がいい学校だったので、不登校にならずに済んだが、体質的には不登校予備軍であろう。
もし、不登校になったら、やはり起業していたのではないかな。
想定で話してもしかたがないが、少なくとも慈善おじさんの差しのべる手は払いのけたことだけはまちがいない。
必要ともされてない手を差しのべるよりも、現役の社会人としての「背中」を彼らに示すことが何よりもの社会貢献だ。
相手が乞うのならともかく、求められてもないのにノコノコとコーチを買って出るのはダンディではない。カラオケで熱唱するのをむりやり聞かせるようなものだ。
先輩づらして御託を並べるより実績で示せ。
これは、いかにも慈善おじさんになりそうな自分への戒めでもある。
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【160119】坊やは私の性格を受け継いだようである。とても臆病、神経質、細かい。

坊やは私の性格を受け継いだようである。とても臆病、神経質、細かい。いずれもよくないとされる気質であるが、私はとてもうれしく思う。
というのは、これらの気質の持ち主こそが「勇者」になりうるからである。
司馬遼太郎もこのことは、よく述べている。臆病だからこそ緻密に調べ上げ、周到に準備してことに臨める。大将の重要な資質の一つであると。
これは実感する。私も根が異常に臆病なものだから、そう思われないよう奮起してきた。いわば演技してきた「役」がしだいに私の性格として定着してきて、気づいたら豪傑キャラとして受け止められることが多くなっていた。
生まれつきの性格のまま一生を終える男などまずいない。神童は凡夫となり、寝小便たれが歴史を動かす。
だからスタートラインなど低いほうがいい。なぜなら、「連戦連勝」を味わえるからである。
本人と私のような伴走者で一個の男はつくられてゆく。だいじなことは、「かわいそうだ」と母親がつぶさないことだ。
坊やは脱母親に成功した。つぎに問われるのは私だ。
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【160118】知り合いが夜のバイトを始めた。警備員か倉庫などの肉体労働らしい。同時に、彼はMBAの勉強も始めたという。

知り合いが夜のバイトを始めた。警備員か倉庫などの肉体労働らしい。同時に、彼はMBAの勉強も始めたという。
どういう事情なのかよく知らないので、「生活が困窮したので、MBAを取得して挽回しようとした」という「別人」を設定して話を続けることにする。
以前、渡部昇一先生がラジオご出演の際、「勉強ほど怖いものはない。へたに勉強すると一生を棒にふる」とおっしゃっていた。
そう、勉強はリスクなのである。
勉強というと、無条件でよきものと認識されているが、そうではない。
戦略なき勉強は地獄の一丁目。終わりなき泥沼に身を投じることになりかねない。
司法試験に受かれば一生安泰だと思って挑むが、もはやそう甘くはない。お客さんがつかなければ、弁護士だろうと医師だろうと食いっぱぐれる。今後ますますそういう傾向が強まること必定だ。
だから、やみくもに勉強に走ってはならない。転職、結婚、起業、入信なみのリスキーな取り組みだからだ。
勉強に打ち込んでいれば、目先の自己充足感が得られる。それがくせものだ。それに溺れてしまいかねないからだ。
長期戦略の上に位置付けられた勉強でないかぎり、目の前の仕事に打ち込むほうがよっぽど我が身のためだろう。勉強に逃げてはならない。
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【160117】ようやく230ページまで絞り込んだ。

ようやく230ページまで絞り込んだ。当初500ページ以上あったので、半分以下に削ったことになる。
完成のめどは立ったが、まだこれを世に出す算段が立っていない。
本を紹介するラジオ番組を15年やってきたので、ある程度業界のことも知っているし編集者に知己もいる。
だが、みずからデビューするとなると話がちがってくる。なぜなら、過去の蓄積の総体とはならないからだ。
どこからどう切り出すかが肝腎だ。雑巾がけから始めるつもりはない。いきなりメジャーデビューする。
そうなるとまず指針を定めなければならない。
それを、以下の3点とした。
1 私の作品に惚れ込んでくれない編集者とは話を進めない。
2 新潮新書、文春新書、講談社現代新書の3つのいずれかで刊行する。
3 著者買い取りの予算は100万円を上限とする。
またもやトラタヌばなしを繰り広げているが、思い描いたことはけっこう実現するものだ。
ましてや、こんなところで公言してしまえば引っこみがつかない。こうやって自分を追い立てながら活躍させるのも、中年ならではの味わいといえる。
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【160116】世間との交流を減らせば減らすほど、夫婦仲がよくなっている。

世間との交流を減らせば減らすほど、夫婦仲がよくなっている。
ふつうこういう場合、世間にまわしていた時間を家内にまわした結果、良好になったと思われることだろう。
だが、そうではない。家内との会話も激減した。いまや週に原稿用紙2枚程度だ。
べつに仲が悪いわけではない。大家族なので、占有率が下がったに過ぎない。
家内は専業主婦だからいつも家にいるが、子供ふたり、我が両親、妹やら叔父叔母、さらにはママ友と話し相手には事欠かない。
「勝因」の最たるものは、私が家内にちょっかいを出さなくなったことだろう。
飲んでいたころは、よくつきあわせたりしていたが、それがなくなった。
また最近は日々没頭しているので、私が寡黙になってきたこともあるかもしれない。
世間は「夫婦の会話を増やせ」いうが、それには反対だ。夫婦の会話は減らしたほうがいい。
会話を減らせば、阿吽の呼吸が身につくからだ。以心伝心こそ最強のコミュニケーション法だろう。
飲まず、食わず、遊ばず、出歩かず、そしてしゃべり散らさず。いままで私が淫してきたことがことごとく葬り去られてゆく。
五穀を断って即身仏になった先達たちの如く、私も五淫を断って即身仏マンになるとしよう。
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【160115】餅の消費量が異常だ。

餅の消費量が異常だ。
年末についてもらったぶんは早々になくなり、その後、切り餅大袋を補充すること3度である。
仕事場で食うのはたいてい雑煮だ。
市販の昆布つゆに野菜、椎茸、唐辛子、つみれだんごを入れてグツグツと煮込み、最後に餅を2個3個放り込む。
ひと息ついて、茶やコーヒーをいれるときは、きな粉餅をつくる。
餅を2個浅い皿に入れて水で浸して、電子レンジで1分。
ゆだった餅にきな粉をまぶし、最後に黒蜜をかける。
世界で「サイレントキラー」として恐怖される餅だが、小さく切るなり、食う前に水を飲むなりすれば、つまり予防になる。
さて、餅を常用するまで、そのポジションは小麦が占めていた。鍋に入れるのはうどんであったし、おやつはクッキーだった。
小麦はよくないというし、米は肥るという。消費社会は何かと騒々しい。
そんなどうでもいいことを知っていると、飲み会での話題に事欠かないがその程度の価値でしかない。
男子たるもの、知っていることがむしろ恥ずかしいことであり、仮に知っていても口に出さないようにしたいものだ。
武士は食い物のうまいまずいはいわないものとされた。
いまの世の中ではすっかり風化した美意識であるが、私はその戒めを守っている。
餅がうまいかまずいか、それは語らぬが、主食も間食も間に合わせることができる餅は何かと重宝である。
持ち歩きにも便利なので、懐中にしのばせておけば、山で遭難したり、帰宅難民になったときも安心だ。
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【160114】耳の痛い話を聴きたい。

耳の痛い話を聴きたい。
なぜなら、自分の戦略に磨きをかけたいからだ。
だから、私もお役に立とうと、できるだけ「耳の痛い話」をしようと心がけている。
だから、耳の痛い話に怯む人は離れて行く。それはそれでいい。「豪傑」だけ残ってもらいたい。
私の言説など、ふつうに生活しているだけで、早々に抵触してしまうようなものばかりである。
飲み食いするな、出歩くな、フェイスブックでチャラつくな。こんなメッセージばかりだ。
にもかかわらず、食らいついてくださるみなさんは「豪傑」としかいいようがない。
重量感あふれる顔ぶれをみて、励まされているのは私自身なのかもしれない。
何もかもがあり余っている「余剰社会日本」。
ここで生きるためには、勝手に期待されていると思い込み、勝手に期待に応えるという「過剰精神」。これこそ明るい未来のエネルギーである。
これが志につながる可能性も高い。
これからの時代、志で暇をつぶさはければやりきれないだろう。
それが得られず、手っ取り早く飲み食いに走ってしまうと、「復帰」がいよいよ困難になる。
昨日、「おのれの年齢を直視せよ」と述べた。これに続く助言として、「人間関係を見直せ」と提言したい。
具体的かつ露骨にやればかどが立つ。ゆっくりじわじわと離脱していくのだ。
どこからか?
その絞り込みにころ、おのおのが腐心せねばなるまい。それが戦略を決定づける切所というやつであろうから。
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【160113】「成功体験」というものは往々にして「若さ」にともなう優遇体験に過ぎない。

「成功体験」というものは往々にして「若さ」にともなう優遇体験に過ぎない。
若いから受け入れられた。若いから許された。若いから任された。若いから引き上げられた。
これが現実なのに、それを「実力」だと勘違いしてしまうと、世のすべての事象が逆さまになって見えてくることになる。なぜなら我々は歳をとるからである。
周囲を見まわしてみると、「25歳OS」のまま30代、40代さらには50代を迎撃している人がいる。
そんな古ぼけたOSは一刻も早く切り替えねばなるまい。
だが、パソコンならそう対処しても、おのれの人生でアップグレードしている人は数少ない。
アップグレードせずとも、そういう現実があることを知ってもらいたいものだが、「都市」にはそうした機会も機能も乏しいから、それも困難だ。
年寄りになっても「若者」として遇され、「若さ」を至上の価値とする異常空間。
いつまでも「若者」のままで生かされてしまうのが都市というものだ。
成熟社会の人生戦略は、都市の異常さに気づくことから始まる。
都心で暮らすのはラスベガスでホテル暮らしをしているようなものだ。
勝ち逃げするか、せめて負けがこむ前に逃げ出すべきだろう。
かといって、そのために身を都市の外に置く必要はない。意識の置き場所を変えるだけでいい。
そのための第一歩は年齢を直視すること。自分の日常は年相応か、それをおのれに問うてみてみるのである。
posted by 雄峰 at 11:00| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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