2016年03月25日

【160311】年来の友人が今日の記事について感想、というより反論を寄せてきた。

年来の友人が今日の記事について感想、というより反論を寄せてきた。要は「ローンも悪くない」という内容だ。
これに反論するつもりはない。各人どう考えようと自由だからだ。
友人は気づかって、記事にコメントすることはなく、直接メールを寄こした。その配慮は尊い。
だが、他人の意見に反論するのはダンディではない。反論するなら、持論を雑誌でもブログにでも展開せよと助言しておいた(よけいなお世話だが、友人としてのよしみだ)。
木戸孝允も大久保利通も議論に手を染めなかった。坂本龍馬は「議論は暇人に任せておけ」と言い捨てた。
意見などというものはしょせん「好み」である。巨乳が好きか貧乳が好きかくらいの話だ。それをぶつけ合うという不毛な営みは、やはり暇人に任せておくしかない。
したがって、私も議論しない方針だ。反論されてもリアクションしないことにしている。
だが、まだ未熟なので、対面で反論されると、ついやり返してしまう。
抜いた刀の血を拭い、鞘に収めるとき、いつも慚愧の念にかられる。また無用な殺生をしてしまったと。


posted by 雄峰 at 11:49| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160311】「持ち家」とはいうが、現金一撃購入かローンかでは雲泥の差だ。

「持ち家」とはいうが、現金一撃購入かローンかでは雲泥の差だ。
現金一撃購入がいちばんであることは当然として、つぎにくるのは賃貸だろう。ローン中では本来「持ち家」というべきではないのではないか。
田中角栄は大蔵大臣のときに「銀行はどんどん住宅ローンを貸し出せ。そうすれば借り主は保守的になるので、自民党に有利だ」と息巻いたそうだ。
発言の真偽は定かではないが、ローンが「精神的拘束」であることは、エスタブリッシュメントの間では当然とされていたようである。
それに先駆ける昭和30年ころ、「お金の神様」とよばれた作家・邱永漢は銀行から融資を受けて青山あたりの不動産をいくつも買った。それらは急激に値上がりして、彼は大金持ちになった。
だが、邱さんが融資を受けて不動産を購入するのをみた人たちは「何やってんだ邱さん、金借りて不動産買うやつがあるか?」という反応であったという。
かくも先見の明がある人とは、同時代の常識人にとって理解不能な行動をとるものなのだ。
懇意にしている不動産エージェントは「皆さん、目一杯借りられるだけ借りて、目一杯買えるだけ高い物件を購入する」と言っていた。
そんなことなら、「震度1」程度の生活衝撃で返済計画は破綻してしまうのではないかと危惧する。だが、彼らにはそんなこと、どこ吹く風らしい。
ちなみにそのエージェント自身は、中古マンションを半金ほどローンを組んで購入したとのことだ。プロは手堅いのだ。
(前職なので感謝しているが)リクルートの不動産メディアは、「今が買い時!」と、年がら年中がなり立てる。
そんなのに引っかかる人なんているのだろうかと思いきや、けっこういるのだと驚かされる。
なんて、持ち家の話をしていたら、また「核家族から拡大家族へ」というテーマが横道にそれてしまった。
つづきはまた明日にでも、ということで今日はこれにて御免!
posted by 雄峰 at 11:48| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160310】いま七十歳前後の人びとが「親」になった時代だから、今から30〜40年前のことだ。

いま七十歳前後の人びとが「親」になった時代だから、今から30〜40年前のことだ。
彼らの戦略は「いかに核家族を営むか」にあった。
経済規模が拡大し、社会の流動性が高まるなか、それはにわかに実現可能になった新しい家族形態であった。
当時はまだ、長男でありながら郷里を離れることは白眼視された時代であった。
私の恩師は「東大に合格したら、東京に出てもいい」と親に言われた。彼は奮起して東大に合格して、故郷を捨てた。その背徳感に、彼はいまださいなまれるという。
そんな時代もすでに遠い昔の話。こんにち、核家族はすっかり「標準」となった。
結婚すると気に入った街に家を買い、何十年というローンを背負い込む。これで「持ち家」のあるじだ。
おっちょこちょいの私は気づけば5軒の家(とはいえ、中古マンションなどほそぼそ)を持つ身となったが、持ち家ゼロだった頃から、「持ち家」にマルをつけていた。
なぜなら、親の家には子々孫々住むものであり、親の家は私の「持ち家」であるとみなしていたからである(当時から、そんな偏屈者であった)。
金融業者がいまだに「持ち家」が資産力=返済力であるとしているのは笑止千万で、「貴殿の石高や如何に?」などと問うているのと変わらない時代錯誤ぶりだ。
ーーなどと悪態をついているうちにくたびれてきた。
「核家族の罠と拡大家族戦略」というテーマで明日も続けるとして、きょうはこれでおしまいです!
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【160309】以前やっていたラジオ番組の設定リスナーは「ラブホでベッドメイキングをする50男」であった。

以前やっていたラジオ番組の設定リスナーは「ラブホでベッドメイキングをする50男」であった。
「みじめな人生ですが、番組を聴いていると気が晴れます!」
こんな熱烈なファンメールをもらって、私は出演者やスタッフと共有し、ラブホ氏を激励する番組にしていこうと伝えたのだ。
この方針は難易度が高かったが正しかった。ラブホ氏を想定することで、番組はどんどん先鋭化していったからである。
だが、一方において、このときの「成功体験」がその後のとらわれとなっていた。
いま書き上げた原稿がどこか散漫であるのは、読者対象が明確ではなかったからである。
ラブホ氏は読者とはならないであろう。では、いったい誰なのかが判然としなかった。
それが、このたびあきらかになった。ひとことで言えば「政治家」である。
私は政治家を尊敬している。選挙を一度やってみて、大いにそう思った。
マスコミは反撃してこないからと、下劣な攻撃を行うが、彼らはみな、それなりに志を胸に活動する得難い人びとである。
当然、なかにはいろんな人もいるだろうが、世間一般より程度はいいと私は思う。
彼らのような重責と重圧を受けた強き「弱者」の力になりたい。そう心が定まったとたん、文章に魂が宿った。
何を語るかではなく、誰が語るかとはよくいわれるが、私の場合は、何を語るかではなく、「誰に」語るかだったのである。
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【160308】男女の性差が如実に出るのは、落ち込んでいる場面においてではなかろうか。

男女の性差が如実に出るのは、落ち込んでいる場面においてではなかろうか。
世の女性は「うん、わかるわかる。ほんとにひどいよね…」と共感されるのがよいらしい。
私はこれが苦手で、(めったにないが)女性から相談されると、抜本的な解決策を考案し、それをごりごり押してしまう。
女心がわかっていないので、じつにモテない。
私を含む男性陣のおおかたは落ち込んでいるとき、「うん、わかるわかる」と共感されるのは嫌だと感じることだろう。なぜなら、よけい惨めになるからだ。
「そんなの、悩みのうちに入らん。根性が足りん!」と一喝してくれたほうが気が晴れるというものだ。
飲み屋のママさんも「なぁに言ってるのよ」と一蹴してくれるので、世の男たちは心やすらぐ。
こんな性差は厳然と存在するし、そうであるから人の世は面白い。
ところが、最近はアカデミズムの世界でも、性差が語られるのはタブーとされつつあるらしい。
先日関わった心理学実験では、性差が顕著に出ていたのに、それは黙殺された。
アカデミズムすら圧殺してしまう性差否定論はもはやイデオロギーだ。社会を歪める要素として定着していくのだろう。
あらかじめ、この歪みを是正するメガネをかけながら世の中をみなければ、物事の本質はみえなくなる。心したい。
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【160307】いつの頃からか、甘い匂いを嗅ぐことが多くなった。春先、梅がぷんと匂うように、それは唐突に訪れる。

いつの頃からか、甘い匂いを嗅ぐことが多くなった。春先、梅がぷんと匂うように、それは唐突に訪れる。
読んでいる文庫本からかコピー用紙からか、それともクッキーのかけらか、はたまたスマホか。そのたびに鼻を近づけてみるのだが、出どころは今もってわからない。
数日前、坊やもその匂いをキャッチして、「お菓子はどこ?」と尋ねてきた。どうやら私だけに匂うわけではないらしい。
ひょっとしたら、出どころは私ではないか、そんな気もしてきた(加齢臭の一種か?)。
この現象が現れた時期と断酒した時期が符合している。
もう一つ思い当たるのが、他人の加齢臭が気にならなくなったことだ。これも同じ時期である。
となると、この甘い匂いはーーあっ、いまも漂ったーーは、こういうことかもしれない。
他者の嫌なところは、自分の欠点を映し出す。他人の加齢臭は、自分の加齢臭に他ならず、それが断酒によって無臭化していった。
その結果、得られたのが、この甘い匂いなのではないか。
そういえば、この匂いは娘(0歳)の匂いに近い。生まれたての子供はいい匂いがする。
となると、この匂いは加齢臭どころか「若返り臭」なのかもしれない。
むろん確証は持てないが、現段階では、それがいちばん納得できる見立てである。
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【160306】坊や(4歳)とふたり旅をしているとよく驚かれる。世間の男の子はまだお母さんべったりだからだ。

坊や(4歳)とふたり旅をしているとよく驚かれる。世間の男の子はまだお母さんべったりだからだ。
坊やは週末になると、私の仕事場に泊まりにくるし、月に一度程度ふたり旅をしている。
今日は、坊やと京都貸し出し前の最後の宿泊。何もないがらんとした部屋に布団一枚でくるまって寝息を立てている。
坊やが私になついている理由はただひとつ。たっぷり面倒をみてきたからだ。これに尽きる。
赤ちゃんのころからいまに至るまで、膨大な時間をかけて世話を焼いている。イクメンとかそういうレベルではなくむしろ乳母に近い。
さらには、私と気質がとてもよく似ていて、ウマが合うということも大きい。とはいえ、やはり時間と手間をかけてきたことにまさるものはない。まさに丹精してきたといえる。
まもなく5歳になるので、だいぶ言葉も長けてきた。最近では私にツッコミを入れるようになってきた。
そんなことをやる人は後にも先にも坊やひとりで、私自身の新境地だ。これを機会に「利休(するどさを休める)」の境地に達することができるかな。
子供の面倒を母親任せにしている父親が多いかもしれないが、それはもったいない。かけがいのない「親友」を持てるかもしれないからだ。
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【160305】政治には興味がない。

政治には興味がない。
選挙に出ていながら、何という言い草かと思われるかもしれない。
だが矛盾はない。私はプレイヤーとしての政治、つまり政策立案及びその実現には興味があるし、今後も携わりたいと考えている。
だが、オーディエンスとしての政治、つまりテレビや新聞で政局や選挙結果みるような「政治」には興味がない。
ささやかながら経験してみて、現実の政治とマスコミで語られている「政治」には、たいへんな隔たりがある(家内も参議院議員の秘書をしていたが、聞けば国政のほうがその隔たりは大きいようである)。
だから、マスコミがつくった虚構を土台にして、喧々囂々することの不毛さはよくわかっているつもりだ。
政治について見解を述べることは一見インテリぽいが、そんなことは、釣りやプロレスについて語るのと変わらない。
いや、そんなことを言っては、釣りやプロレスに失礼かもしれない。
ファンの言動という点では、むしろプロレスファンのほうがよっぽどダンディだ。
彼らのほうがプレイヤーに対して謙虚だし、偉そうなことを言わない。さらには実相に近い(ように思える)。
その点、政治好きは自分のことを棚に上げて言いたい放題。その無様さはみていてつらくなる。
我が親父もその傾向が強かった。同居する孫への悪影響を考慮して、お茶の間政治談義は坊やの前では遠慮されたしと要請した。
親父は恥ずかしそうにして、鳴りを潜めてくれた。
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【160304】もともと涙もろいが、最近激化してきた。

もともと涙もろいが、最近激化してきた。
難病の子供を取材したドキュメンタリーをみていたら号泣してしまい、仕事にならなくなった。
こんなことが増えてきたのは、歳のせいだろうか。
司馬遼太郎は、40代になると感情のタガが弛んできたと、ご自身の実感を語っていだ。
かくも心身は変質するものだが、往々にして無自覚なものである。
老害とよばれるものの原因は、こうした経年変化の認識欠如から引き起こされることを思えば、こうした変化にはつねに鋭敏でありたいものだ。
五木寛之は車線をトレースできなくなっている自分を発見し、運転免許を返上した。さすがと言うほかない。
おのれの心身を「鏡」映すように捉えるためにいちばんいいのが、周りから指摘してもらうことだろう。
だが、私は押し出しが強いし弁も立つ。私に忠告するような無謀な人はほとんどいない(そもそも忠告という行為が下品でもあるが)。
だが、それでは成長のための糸口が得られないので、信頼できる友人には「1点500円で忠告して欲しい」と依頼したこともある。
ただ、いまはこの日記がその役割を果たしつつある。
まもなく始めて半年になる。日々綴って、ときどき読み返すと、我ながら変であると思うようになってきた。これは、ここ数年で最大の収穫だ。
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【160303】過日、メンタルを患ったという人から「盛池さんは鈍感だし、回復力もあるから、心の病気になりませんよ」と言われて、ほっとした。

過日、メンタルを患ったという人から「盛池さんは鈍感だし、回復力もあるから、心の病気になりませんよ」と言われて、ほっとした。
鬱病になるのではないかと、しょっちゅう予防策を調べていたからである。
鈍感かーー自分ではそう思っていなかったので新鮮だ。そうみている人もけっこういるのだろうな。じっさいそうなのかもしれない。新しい切り口を獲得できて刺激になった。
もう一つの「回復力」については自覚がある。
「回復力」とは「物語をつくる力」ではないかと思う。
私はいかなる苦境に陥ろうと、自分が主人公の物語を編み出すことができる。都合よく状況を解釈するのだ。
どんな物語にも、主人公が苦境に陥ることがある。いうならば「見せ場」だ。
だから、私にとって「苦境=見せ場」なので、むしろハッスルする(安逸を貪っているときのほうが元気がないくらいだ)。
断酒にしても、安逸のなかに無理やりつくった見せ場といってもいい。こんなたちだから、打たれ強い。打たれ強さが回復力というものなのかもしれない。
さっきの件でも、「鈍感」と言われれば、傷ついて落ち込む人もけっこういるのではないかと思うが、私はそうではない。そこに可能性を見出す。
今まで気づかなかった「鈍感な私」を発見できた興奮のほうが大きい。これは虚勢ではない。そういう思考体質なのだ。
かくも人はそれぞれ違う。
私はこの場で自分の「正しさ」を主張しているのではない。むしろ、私の言論は正しくないのだろう。
だが、こんな奇矯者の言論も面白いではないか。私ならそう思う。そんな心に余裕のある人とこの場を共有したい。
心境としては落語家が近い。正装して真顔で馬鹿話をしている。その存在自体が変なのだ。
だから、真顔で話しているからと、真に受けてムキにならないでくださいね。
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【160302】「ストレスフリー」という同調圧力が蔓延中である。

「ストレスフリー」という同調圧力が蔓延中である。「ストレス=悪」という尺度ですべてを裁こうというファシズムといってもいい。
たとえばこんな感じだ。
次郎冠者が100日で20キロダイエットの荒行に取り組む。
こういうとき、「無理しないでね」と声がけする輩がいる。
これは「圧力」としてはきわめてソフトだからまだいい。だが、そう言われている奮起者の気合いに水を差す行為だということは認識されてもいいだろう。
たちが悪いものになると、指導者(=この場合、私)に対して批判と攻撃を加えてくる。
「そんなひどいことさせて、ひどい奴だ」と言わんばかりに。
荒行は当人が望んだことだ。私が首根っこつかんでやらせているわけではない。
だが、ここぞとばかりに同調圧力屋が群がり、「いい人ポイント」を稼ごうとする。
彼らはたいてい不遇をかこっているから、愛情(賞賛や感謝)を獲得しようとしているのであろうが、自覚はなく「善人」を演じている。
大事を成す者は、人生の折々で奮起するものだ。そんなとき、私なら激励する。
「100日で20キロダイエット? がんばりなよ。せっかくなら1ヶ月でやりなよ」と。
他者の奮起に水を差してはならない。ストレスフリー化する社会は、足を引っ張りあうイヤな社会だ。
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【160301】20キロ痩せた。黄金色のう○こが出た。小金が入った。そんな弟子たちから喜びの声が届く。

20キロ痩せた。黄金色のう○こが出た。小金が入った。そんな弟子たちから喜びの声が届く。
たしかに、私のやり方を実践していれば、そんな「余得」にあずかることもできるだろう。
だが、そのたびに私の眉は曇る。私は何も快便屋や減量家を育てているわけではないからだ。
元気溌剌な心身を社会にどう役立てるかを考え、それを実現することを私は期待している。
社会を変革しようとするのなら、まずは自己を変革する。これは私の言葉ではない。いにしえより、よく言い習わされてきた言葉だ。
自分を変革できてはじめて社会を変革する権利が与えられるといってもいい。
自分のこともろくにできないくせに、世間のことをあれこれ言うのはダンディではない。
まずはおのれのダンディズムを確立してから、世間にダンディズムを求めるのが筋だ。
もっとも、そのときには、世間のほうから、「どうしたら、いいですか?」と尋ねてくることだろう。
そうなるまでは、おのれに磨きをかけながら、時節を待つほかない。
西郷隆盛や大久保利通が注力したのは、若輩の軽挙を抑え、現実的な準備を淡々と進めることだった。
痩せても、黄金色のう○こが出ても、人生の本質を見失っては元も子もない。
たとえ、デブでも便秘でも、「大事」に向けて日々燃焼する者たちが英雄である。
減量や便通などにかまけている場合ではない。
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【160229】今年から手帳を持たなくなった。

今年から手帳を持たなくなった。予定はスマホのメモ帳に記している。これで丸2ヶ月経つが支障はない。
支障がないどころか、よけいな用事を組まなくなるという恩恵をこうむった。忙しい人は、手帳を持たないといいかもしれない。
高校時代、はじめて手帳を持ったが、帰宅部の私に記すような予定などほとんどない。
空白だらけではかっこうがつかないので、無理して用事を書き込んだ。
だが、それは「用事」というより「余事」というべきもので、このときから私の迷走が始まったといっていい。無為に出歩き、いらぬことに興味を持つようになったのである。
「空欄」というものは怖い。埋めようという衝動がつい発動してしまうからだ。
これは学校のテストの習い性なのだろうか、空欄は埋めなければならないという強迫に駆られるものだ。
私はこれを逆手にとって、学生相手に講義するときは、解答欄を多用したレジュメを配る。
空欄を埋めようと、真剣に話に耳を傾けるので、私の講義で居眠りする人はいない。空欄の威力を思い知る。
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【160228】司馬遼太郎は偏食だった。魚嫌いで、とくに蟹にはいっさい手をつけない。ニンニクの臭いも嫌った。

司馬遼太郎は偏食だった。魚嫌いで、とくに蟹にはいっさい手をつけない。ニンニクの臭いも嫌った。
好物は油揚げで、厚揚げや薄揚げは煮ても焼いてもよく食べたそうだ。
ちなみに私は偏食はない。何でもよく食べる。
一般的には偏食はないほうがいいというが、はたしてそうだろうか。
たしかにあれこれ食うことを楽しみたいのなら、偏食でないほうがいいだろう。
だが、必要な栄養とエネルギーを得ることが目的なら、身体が欲する物を摂取するほうがいいような気がする。
イヌイットに「バランスよくモヤシも食べなさい」と言っても嫌がるだろう(よく知りませんが)。
いつだか「健康のために1日30品目食べましょう」とテレビでいっていた。
そんなことを間に受けてやっていたら、デブるし、1日が食うだけで費やされてしまう。
こんなメッセージはしょせん広告なので相手にしなければいいのだが、「健康」というものについては考えさせられだ。
戦後の価値観は「カネ・学歴・健康」の3点に集約されるであろう。
この3つを血眼になって求めているが、それらを得たところで活用できている人は少ないように思う。
いくら異常に健康でも、燃焼する対象がなければ無用の長物だ。その程度の健康に懸命になるより、好きなもので身体をやしない、自分を活用する道を探ったほうがよいのではないか。
一流のアスリートや芸術家に偏食家が多いのは、用途もない健康に懸命になるより、自分をハッスルさせることを優先しているということだろう。
たしかに健康第一ではあるが、それを上回る価値を持っていたいものだ。
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【160227】泣いたら、体調がよくなった。

泣いたら、体調がよくなった。
『利休にたずねよ』を購入すること4度目、読み返すこと5度目。
利休といえば、行儀のいい爺様がお茶をズズッとすする。そんなイメージがあるが、さにあらず。
じっさいは大柄の絶倫男で、状況次第では天下をうかがうような豪傑であった。
だが、そんな利休の実相が描かれている読み物はじつに少なく、本書が刊行されて一読したときに、私の利休像は「山本利休」として落ち着いた。
フィクションなのであろうが、物語の終盤、若き利休が女と逃亡するシーンは何度読んでも心が震える(ここで泣いてしまう)。
この狂気の行動こそ、茶の湯者のみならず、あらゆる芸術家の本領といえるだろう。
ただし、その狂気を現実社会のどこに位置づけられるかは、当人の「政治力」次第だ。
その点、利休は大政治家だった。
茶の湯という芸術レイヤーを新たに創出し、秀吉に代表される武家社会の上に置こうとした。彼は「革命家」だったのである。
秀吉はそれを恐怖して切腹させたのではないか。切腹は一介の茶人に与える沙汰ではない。利休は武士とみられていたのである。
利休の叛骨を現代に引き継いでいるものは何だろうか。少なくとも茶道ではなさそうだ。
ちなみに映画版はひどかった。
秀吉がたんなるブラック店長程度の悪役に描かれていたからだ。そのぶん、利休がちんけになってしまった。
原作どおり、天下人は天下人然として描いて欲しかったな。
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【160226】昔なら、この風邪で死んでいたことだろう。

昔なら、この風邪で死んでいたことだろう。
大正時代の平均寿命は40歳そこそこ。50歳を超えたのは戦後になってからだ。
「人生50年」という認識で生きるとはどんな心境だろうか。
60歳まで生きられたら10年のボーナス、70歳まで生きられたら20年のボーナスと感じたのではないか。
よく戦地から生還した人が「残りの人生は余得」というような発言をするが、それが近いのだろう。
となると、「人生80年時代」は不幸なことかもしれない。もし60歳で死んだら20年損した気持ちになるからだ。
そう考えると、「人生は50年」ととらえ、そこでいったん人生を完結させようとする死生観を持つことは(たとえその後長生きしたとしても)、濃密でお得な人生を送るための要諦ではないかとも思う。
自殺者は「49歳男性」が突出して多いという。これはあるいはこのあたりの心情の表れなのかもしれない。
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【160225】また風邪をひいた。

また風邪をひいた。昨夜から風邪の症状が現れている。今年に入って、ずっとこんな調子だ。
学生時代並みに痩せて寒さに弱くなったせいだろうか。それとも、坊やが幼稚園に通うようになり、風邪をうつされてくるようになったせいか。はたまた、夫婦仲が良好なので気が緩んだのか。
だが、これだけ風邪を連発するのは、もはやこうした事情や免疫力云々の問題ではないような気がする。天から何かを試されているのではないか。
私は気儘人なので、こんなときいくらでも療養できる。いつもなら、できるだけ睡眠をとるなどして身体を休めたことだろう。
立て続く風邪は、こういう環境への警鐘をならしているのではなかろうか。
世の中年おやじはこんなことをしていられない。今朝のような雪の朝も、背広を着て風邪薬を飲んで、通勤電車に揺られて出勤する。私は20年近くそういう暮らしから遠ざかっている。
日常生活の慢性的な弛緩がこうした状況をもたらしているのではないか。そう考え、今回はサラリーマンのように風邪に向き合うことにした。
「勤務」時間中は寝ないで、ふだん通り仕事する。日ごろ風邪薬はまったく飲まないが、つらいようなら服用して「勤務」してみよう。
こうしたらどうなるのだろうか。経過を観察して、「天の意思」を探ってみたい。
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【160224】「梅を観にこないか」と、ある大学教授に誘われて、お宅にお邪魔した。もう十年も前のことだ。

「梅を観にこないか」と、ある大学教授に誘われて、お宅にお邪魔した。もう十年も前のことだ。
神奈川県下の海沿いの小駅に降り立ち、里山を歩きながら梅を愛でた。
その道すがら、「あれが村上春樹の家だよ」と指差された。それは、巨大なガレージのような、やや無粋な印象の建物だった。
当時はまだ村上春樹を読んでいなかった。チャラいバブル作家くらいに思っていたくらいだから興味はわかなかったのだ。
むろん今はちがう。全作品を読破中の熱烈なファンだ。
さて、村上春樹がその地を選んだのはなぜか。
それは「走れる」からではなかろうか。エッセイ『走ることについて語るとき、僕が語ること』によると、家の周りには走るのにいいコースがあり、海沿いではトライアスロンの自転車の練習もできるという。
人はどこで暮らすかについて、それぞれ優先順位を持っている。私の場合は「走れる」ことが最優先の条件だ。
高尾にある仕事場近くのコースは最高だ。これにまさるコースはなかなかない。山梨の家の近くのコースも雄大で気に入っている。
京都のマンションを購入するときも、目の前の高野川沿いを走れることが決め手になった。
九段下のマンションはジョギング習慣以前に購入したが、そこから皇居は走って5分程度だ(一度だけ一周したことがある)。
村上春樹も東京の家は神宮外苑の近くにあって、走り始めたのはその周回コースだったという。
山歩き、ジョギング、ラジオ体操、テニス、散歩。不動産情報サービスは、こうした習慣を切り口にして紹介をしてみてはどうだろうかーー庭先の梅の花を眺めていたら、こんなことをつらつらと思った。
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【160223】中1のとき、国立駅の事務室で駅員たちにこっぴどくやられて、おいおい泣かされたことがある。

中1のとき、国立駅の事務室で駅員たちにこっぴどくやられて、おいおい泣かされたことがある。
私の「罪状」は気づかないまま1週間ほど通学定期を使っていたことである。
改札口で毎日ふつうに見せていたので、1週間も気づかぬ駅員のほうに非がある。
だが、当時は国鉄末期。サングラスかけてガムを噛んでいるようなガラの悪い駅員はざらにいた。彼らにそんなことを言っても通じない。奴らは悪意なき少年を執拗にいたぶり続けた。
いきなり犯罪者扱いをしてきたという点では、ノリは警察と変わらない。だが、こんな話は今や昔。今のJRにはこんなチンピラ社員はいない。往時を知るものからすれば、こちらが恐縮するほど物腰が丁寧だ。
「やさしい化」はありとあらゆる場面で進行している。警察ですら、最近はマイルドになってきている。
だが、この「やさしい化」と鬱病をはじめとしたメンタルの問題は同期しているのではないか。
気功で鬱病を治すという小池義孝氏の動画をみていてそう思った。
心も子供のころからゆっくり負荷をかけながら強くしていけばしなやかで強いものになる。
だが、そういう鍛錬をしないまま社会人になって、いきなり大きな負荷をかけられたらボキッと折れることになる。
だから「やさしい」時代においては、自分で意識的に鍛錬する必要がある。なぜなら、タフな機会はいくらでも避けられるからだ。
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【160222】横山光輝のマンガ版『史記』(全15巻)を通読した。

横山光輝のマンガ版『史記』(全15巻)を通読した。
数々の英雄俊傑が登場するが、人物を評価する際にもっとも使われていた形容表現は「勇敢」や「度胸」などではなかった。それはなんと「用心深い」であった。
用心深いなどといえば、小心者の態度かと思われがちだがそうではない。英雄のもっとも重要な資質としてとらえられているのである。
逆を考えればわかりやすい。用心深いの対語は「無謀」である。無謀な男についていこうなどという者はいないだろう。
ところが、昨今の価値観では「用心深い」などという資質は尊ばれない。ノリが悪いくらいに思われていて、むしろ「無謀」くらいがよきものとされているようですらある。
平和な時代が長く続いているせいだろうか。平時においては、多少無謀でも命にかかわることはない。
それどころか、そんな蛮勇が勇敢だと評価されてしまうくらいだ。
平時における価値観と乱世における価値観は正反対になってしまうから面白い。
posted by 雄峰 at 11:32| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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