2015年11月02日

断酒日記 46日目「ナルシシズムという魑魅魍魎 その2」


司馬遼太郎作品を読破してわかったことは、司馬自身が元来ナルシシズムが強い人物であったことだ。
ただし、彼の偉大なところは、若いころにその愚を悟り、渾身の鍛錬を通じて、解毒しようと心掛けてきたことである。
その凄まじい精神修養の過程が、作品の随所に滲み出しており、それが私を魅了する。
だが、それが司馬自身の克服の過程で得た叡智であったとは、完読するまでわからなかった。
生まれながらの彼の人格であると思い込んでいたからである。
読破の直前、残されたのは、小説ではなく、対談や彼を知る人による回想録ばかりであった。
大方退屈であったのだが、意外なことに、それが司馬という巨人を立体的なものにしてくれた。
梅原猛は『空海の風景』での空海をめぐる解釈で、司馬の「激怒」した。以来、司馬は梅原を避けるようになったという。
司馬が激怒とは珍しい。温厚でけっして激することがないというのは、司馬の人間性をめぐる定評だからである。
これらは梅原の叙述なので、そのまま受け取ることもできまいが、作品を通して、彼の人となりを推し量ると、司馬という巨人を捉えた唯一の人物であったように思える。
梅原は司馬の二重性について語っている。
温和な物腰のなか、時々眼光が光り、強い闘志をたたえるときがある。時代が時代なら、彼こそ一国一城のあるじになれるだろうと。
私も司馬遼太郎の本領とはこういうものであろうと思う。司馬にかぎらず、世の中の超一流とは、物腰柔らかく、強烈な闘志は内に秘めているものであろう。
だから、梅原の指摘は司馬の化けの皮を剥いだというより、司馬という人間の凄みに肉薄したということなのだと思う。
最後の一冊(=『司馬遼太郎の世界』)で私の積年の疑問に一つの解答が得られて、深い感動につつまれた。
司馬遼太郎は作品中、ことさら私心、自己愛、ナルシシズムを嫌悪し、それらを超越することの偉大さを語る。それはしつこいほどである。
どうしてそこまで強調するのかがようやくわかった。それは彼自身が己の中の醜悪さにもっとも激しく取り組んできたからだ。
ただし、その過程をみずからの体験としては一切語らない。それが私との大きな違いである。
ナル男の私は、その取り組みを日々こうして語っている。
自己肥大、自己顕示、ナルシシズムなど、幼稚な自己中心性を制圧すべく日夜格闘している。
もし私が小説を書けるなら、作品へと昇華していったであろう。だが、私にはそのような才能はない。
私にできることは、せいぜいおのれを全開で晒すこと。ナルシシズムという酒精分を揮発させて、世の平和と繁栄に資することであろう。

写真:品性は怒るまでの沸点の高低にあるのだろうが、司馬が怒りを表出させるとはよほどのことがあったのだろう。『司馬遼太郎の世界』梅原猛の寄稿より。

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posted by 雄峰 at 13:34| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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