2016年03月25日

【160210】「大学客員教授」という肩書きは、大名家で剣術指南する兵法者のようで私は気に入っていた。

「大学客員教授」という肩書きは、大名家で剣術指南する兵法者のようで私は気に入っていた。
だが御役御免となり、ふたたび浪人の境遇に戻ることになった。
浪人とはいうが、会社経営者や医療法人理事という肩書きはある。
だが、そんな生業は、どこか内職的な位置づけで、それを名乗るのはどこか気恥ずかしいものがある。
それならむしろ浪人と名乗ったほうが気分が盛り上がる。
学生相手の渾身講義はじつに張り合いがあった。学生の評判も上々で、これこそ天職なのだろうと思った。2年前に終えたラジオもそうだった。私はこの2年で、立て続けに活躍の場を失ったのである。
だが、これでいい。ここまで追い込まれれば、ふたたび世に出ようという気持ちが俄然高まるからだ。
それから、またラジオでも大学の講座でも再開すればいい。
指示されても自ら計画しても、なかなか思うようには動けないのが中年男だ。
こうして外的に追い込まれることは、願ってもない行動機会になる。天に感謝すべきであろう。


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【160209】3年前の健康診断で「脂肪肝」と「緑内障疑い」が指摘された。

3年前の健康診断で「脂肪肝」と「緑内障疑い」が指摘された。
4月に健診を受けるが、脂肪肝は完治したのではないかと思う。一方の緑内障はそれ以来、点眼治療を続けている。過日検査を受けたが、視野欠損は進行していないようで安心した。
高い眼圧が視神経を圧迫することが緑内障の原因であり、もっとも眼圧を高めるのがいわゆるブルーライトというやつだ。
四六時中、液晶画面をみて過ごす人も少なくない。私などそれに近い。
だが、ひとたび緑内障になってみると、視力というものも消耗品であることがよくわかった。
脂肪肝も緑内障も私ならではの生活習慣病だ。そのおかげで、酒や不毛視聴をやめることができた。
これを思えば、病気は、生活の贅肉を削ぎ落とし、本分に注力される効果を持つことになる。
「受領は転んだ所に土を掴む」という。何事からも貪欲に掴み取っていけば、加齢も悪くはないどころか味わい深いものになるだろう。
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【160208】私ほどウガイ手洗いを励行している男はいまい。

私ほどウガイ手洗いを励行している男はいまい。また出歩かないから、感染機会も少ないはずだ。睡眠、食事、運動も申し分ない。ストレスも適度かと。
ところが、この2ヶ月で3度も風邪をひいた。これは不運というよりも、免疫力が下がったことによるのだろう。四十の坂を越えると、身体は劣化するものらしい。
こういう場合、免疫力を高めるために自己改造するべきか、それとも身体の変化に身を任せながら環境を整えるべきか迷う。
そんな矢先の清原事件である。
関連報道の一つに、40〜50代の薬物利用が急増していて、その理由として「バブル入社組」の悲哀が語られているものがあった。
「24時間戦えますか」などと煽られて戦ってきたが、歳には勝てない。覚醒剤でもやらねば、往年のパワーは取り戻せないというのだ(いささか荒っぽい論理展開ではあるが)。
覚醒剤はともかく、エナジードリンクやバイアグラに頼るのも同じ発想だろう。だが「ドーピング」はどこかへ皺寄せをもたらす。
「若さ」を無理やり維持しようとするより「円熟」を味わう。こんな発想の切り替えが必要なのが、この時期なのであろう。
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【160207】「つきあう友達を選びなさい」という助言ほど無味乾燥なものもあるまい。

「つきあう友達を選びなさい」という助言ほど無味乾燥なものもあるまい。
1 どういう友達を選べばいいのか?
2 どこにいるのか?
3 どうやったら友達になれるのか?
こんなことは、子供にはわからない。結局、いっている親が友達を選ぶことでしか範を示すことはできない。
では我々親は、友達を選べているのか。これについても定見を持っていて、かつ実行できている者はどれだけいるでかあやしいものだ。
よく「金持ちになりたかったら、金持ちの友達を作りなさい」といわれる。
では、金持ちと友達になるためには、どうしたらいいのか。
ラグジュアリーなパーティーに顔を出す?
そんなところに顔を出しているのは、瞬間風速で小金を持っているか、カツカツの金持ち願望者が乾坤一擲の勝負を賭けているかのどちらかだ。
私はそうした実体のない「金持ち」をけっこうみてきたので、事情はよく知っている。
こんな面々と豪気につきあっていたら、いっしょに泥舟に乗ることになるだけだ。
結局、友達などというものは、なぜかわからないけどウマが合う者同士の共鳴関係でしかない。
類は友を呼ぶ。ある「生態系」には、驚くほど独身者が多かったり、犯罪者が多かったり、努力家が多かったりする。四民平等とはいえ、じっさいには、我々は棲み分けている。
結局、自分が長年親しんできた「生態系」でしか生きられない。友達は選べないのである。
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【160206】次郎冠者が20キロのダイエットに成功した。

次郎冠者が20キロのダイエットに成功した。3ヶ月で2リットルペットボトルを10本(1箱!)削ぎ落としたことになる。
この間、毎日フェイスブックにて私宛ての書簡を公開し、日々の状況を衆人環視の元に置いた。
当初は、私もあれこれと助言していたが、近ごろはみてもいない。なぜなら、すっかりペースにのったからである。
この間、次郎冠者とは何度か面会した。毎回驚かされるのは、目に輝きが宿り、全身からはエネルギーがほとばしっていることだ。
ダイエットとは、贅肉を除去するという以上の意味を持つことを、次郎冠者自身深く認識したようだ。
かくして次郎冠者は生まれ変わった。
こういうとき綺麗事屋は、「リバウンドがどうの」とか言ってくるものだが、そんなものは軽くあしらってしまえ。またデブったら、また取り組めばいい。
だいじなことは、痩せ体型を維持することではなく、おのれを自在に操縦できるという自信を持つことだ。
次郎冠者、祝着至極。
これをもって「師範代」とする。
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【160205】我が家を風邪が席巻している。

我が家を風邪が席巻している。隣家の妹の息子を皮切りに妹夫婦、私、爺、坊や、家内、娘へと蔓延中である。
嘔吐して坊やはショックを受けた。4歳児は「死んでしまうのではないか」くらいに思うものだ。
婆が健在なのと、私と親父が回復してきたので看護体制は万全だが、坊やのメンタルのケアはやはり私の役割だ。
いま坊やが置かれている状況と今後の見通しについて本気でレクチャーをしたら、安心した様子だった。だんだん復調してきて、いま私の部屋で寝息を立てている。
かつての父親は「食わせる」ことが責務とされた。昔はそれだけでもたいへんなことだった。
だが今や「食わせる」ことはそんなにたいへんではなくなった。贅沢を言わなければ、食い物は世の中に有り余っているし、仕事だって贅沢を言わなければいくらでもある。
だから、親父たちは食わせているくらいでいい気になってはいけない。
これからの親父は、家族の「心身の健康」、さらには家族一人ひとりの「品性」も責任領域となるだろう。
時代が変われば、常識も変わる。古い時代の価値観にとらわれていれば、家族を喪失することになる。
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【160204】「結婚生活は長期戦。喜ぶことをするより、嫌なことをしないこと。嫌なことをしないのが愛。」これは、中谷彰宏さんの言葉だ。

「結婚生活は長期戦。喜ぶことをするより、嫌なことをしないこと。嫌なことをしないのが愛。」
これは、中谷彰宏さんの言葉だ。
「恋」は喜ぶことをしあうことで成り立つ。だが、「愛」はそうではない。
いくら喜ぶことを積み上げても、嫌なこと一発で帳消しになってしまう。結婚生活とは、そんな無慈悲な減点法のゲームであるというのだ。
目からウロコが落ちた。
これまで私は「嫌なことをする」と「喜ぶことをする」は帳簿の貸方借り方のように均衡するものだと思っていた。
嫌なことをしてしまっても、フォローすればいいと思っていたのは甘かったといわざるをえない。子孫のため、この機会に修正したい。
この考え方は、仕事に置き換えればよくわかる。信用とは、デタラメ一つで崩壊する。
これくらいの用心深さが家庭生活にも必要だったのである。
久々に、痛烈に耳の痛い話を聴けてとてもイタ気持ちいい。大いに発奮した。
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【160203】1週間ぶりのジョギングの後、恐るおそる計量してみたら、ちっとも増えていなかった(どころか若干痩せた)。

1週間ぶりのジョギングの後、恐るおそる計量してみたら、ちっとも増えていなかった(どころか若干痩せた)。
これまではすこしでもジョギングを休むと即肥えたのに、これはいかに?
どうやら「ヤツ」が降伏したらしい。ヤツとは、私に歯向かってくる身中の「野性」だ。ダイエットとはヤツとの闘いであるといっていい。
ヤツが抗戦を続けているうちは、油断するとすぐに勢力を盛り返してきて、いわゆる「リバウンド」をひきおこす。
だが、ようやくヤツは現在の体重を「国境線」とすることを認めたらしい。
これでようやく、ダイエット戦線を平定した。
先に飲酒戦線、社交戦線、出歩き戦線を制した。そして今回のダイエット戦線平定。残すところは、いよいよ早起き戦線と愛妻?戦線の2方面だ。今後はこれらを平定して、身中統一を実現する。
「敷居を跨げば七人の敵あり」というが、成熟社会においてこの言葉は、いくらかナンセンスに響く。
むしろ、おのれの中に「七人の敵」があるとみるべきではないか。
我が身を狂わせるさまざまな悪癖どもを鎮圧すれば、外の敵なんていつのまにか消えてなくなっているはずだ。
陽明学のいう「山中の敵より心中の敵」を撃破することが、中年男の人生戦略できわめて重要なのである。
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【160202】久しぶりにCD(ダウンロードでなく)を買った。

久しぶりにCD(ダウンロードでなく)を買った。
Stingの「If On A Winter's Night…」というアルバムだ。コンセプトどおり、冬の夜なべに重宝している。
2009年のリリースなのだが知らなかった。ちょうど離婚やら事業失敗などが重なり、都落ちした時期だったからだろう。
スティングはポリスの「シンクロニシティー」以来よく聴いてきた。
ソロになって、いきなりジャズの大物たちを起用したアルバムを出したときはとても驚いた。
当時、スティングは熱帯雨林保全などの社会問題にもメッセージを発していて、若かりし日の私は胸を熱くしたものだ。
同じころ、スティングはインタビューで、ラブソングについて批判的、というより侮蔑的な発言をしていた。彼が30代半ばだったころだ。
その後の彼はラブソングを書くようになった。その「変節」に当初戸惑ったが、家族を持ってみて、それが「変節」ではなく「成熟」なのだと知った。
その後のインタビューで、スティングは「いずれはクラシックをやっているかもしれないね。でも、スティングの交響曲云々ではちょっと軽すぎないかい…」と苦笑していた。
今回その後の活動を調べてみると、クラシックを手がけたアルバムを出したり、オーケストラを従えてコンサートを行ったりしていることがわかった。
そのぶん、ビルボードなどの商業チャートには縁遠くなった。だが、そんなことは折り込み済みであろう。
むしろ、それまでの「世界」からの離脱であり、新しい「世界」への跳躍を成功させたといえよう。
スティングは、私と同じ10月2日生まれ。18歳上だから、いま64歳。
年齢とともに円熟味を増すとはこういうことをいうのか。スティングの人生には強い戦略性を感じる。芸術家として生き残るためには、作品にだけ精魂傾けていればいいものではないらしい。
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【160201】何のはずみか、坊やが「お酒飲んだら?」などと口走った。

何のはずみか、坊やが「お酒飲んだら?」などと口走った。あまりにも唐突だったので、文脈は覚えていない。
そもそも断酒のきっかけは、坊やの「お酒飲まないほうがいいよ」というひと言であったことを思えば、このひと言をもってして解禁としてもいいのかもしれない(いまのところ、そのつもりはないが)。
だが、もはやこの段階になると、酒を飲む飲まぬという話はどうでもいい。
断酒をきっかけにして、私はそれまでの「世界」を抜け出してしまったからである。
「世界」というのはたんに時空や交友関係をさすのではない。生活習慣、思考癖、行動指針などで織りなされた「自己」のことである。
その自己において「別のところ」にスリップした感がある。
最近、村上春樹ばかり読んでいたから、ついこんな妄想をしてしまうのだろうか。
坊やのひと言も、羊男の託宣のように思えてくるし、自分も周囲の人びとも作中人物に見えてくる。
そう、人生が「物語」に思えてきた。これが近い。
これは一種のパラノイアなのかもしれない。だが、日常に物語を感じるほうが人生は充実したものになる。
脚本家はどんなシナリオを書き、監督はいかなる演出をほどこそうとしているのか。それを察知して、みずから演じる。自己を放擲し「役」に憑依する。
村上春樹は「小説はすぐには役に立たないが、そのうち立つかもしれない」という主旨の発言を『村上さんのところ』でしていたが、あるいはこういう効能をいっているのかもしれない。
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【160131】ベッキー問題というのが出来しているらしい。不倫か何かしたみたいね。

ベッキー問題というのが出来しているらしい。不倫か何かしたみたいね。
甘利大臣も何かしでかしたようだが、いずれも私及び家族に直結する問題ではない。だから関心を持たないことにした。
司馬遼太郎は折々「余事にかまけるな」と作中に込める。
上記のニュースなどは、私にとって余事でしかなく、こんなものに関心を持っていたら、時間がどれだけあっても足りない。それだけではない。精神の平衡も損なわれてしまう。
こんなことを言っているが、10年くらい前は違った。
ベッキー問題について語り、甘利大臣問題について講釈していただろう。
その後、それがめちゃくちゃかっこ悪いことだと知ったから、興味を持たないよう自分を戒め、そうしているうちに、しだいに興味そのものがなくなってきた。
もっとも、人が何に興味を持とうと自由だ。好き好きでやればいい。
だが、そのとき、一つだけ肝に銘じておいたほうがいいことがある。
それは「許せない」という言葉はつかわないことだ。
つまり、ベッキーあるいは甘利大臣に対して「許せない」とは言わないほうがいい。
なぜなら、許すかどうかは当事者や関係者だけの権利であって、それは部外者には付与されていないからである。
「許せない」と思うのなら、よけいなことは言わずに、「許せない」行動をしないよう、みずから範を示せばよい。
この手の「断罪癖」はいずれ自分を裁くことになる。
無関係の者どもから「許せない」と罵詈雑言を浴びてはじめて目が醒めるときには、すでにおおくのものを失ってしまっていることだろう。
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【160130】焦っている。15日から売り込みを始めると宣言しておきながらろくに動いていない。

焦っている。15日から売り込みを始めると宣言しておきながらろくに動いていない。
公言したので、小当たりに一件動いてはみたが、スムーズにことが運ばなかったので沙汰止みとなった。
それはそれでいい。つぎの手を打つまでだ。
問題はつぎの手を「いつ」打つかである。放っておけば、原稿をさらに錬磨する日々を送ることになる。これはこれで尊い作業だ。
いま直面しているのは、「どの段階で完成」とするかである。それに確信的な見解がない。
これが締め切りがある仕事なら話がはやい。だが、いま私が手がけているのはそういう類のものではない。
いってみれば「芸術作品」である。誰から依頼されたわけでもなく、自分で勝手につくり続けている。
こういう作品の「完成」をどこに設定したらいいのか、これは業界人よりも、他業種であってもアーティストに尋ねなければならない問いなのかもしれない。
こういう煩悶も今ならではのもの。記しておいて、後日読み返して苦笑いしよう。
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【160129】村上春樹作品をかため読みしている。

村上春樹作品をかため読みしている。これまでエッセイはよく読んできたが、小説はろくすぽ読んでいなかった。
まだ10冊ほど読んだ段階だが、感じたことを記しておきたい。
村上小説の主人公は「規則正しさ」と「礼儀正しさ」という2点が共通している。
むろん、これは村上春樹自身の生き方を投影したものだろう。
主人公は、突如現れる「事件」をこの2つを崩すことなく、安定したものへと変質させてゆく。
これは、村上春樹自身が属している団塊の世代に対する、彼のスタンスが表れているようにも思う。
この年代は行儀が悪く、不規則生活者(バブルで遊び歩いていたのはこの年代だ)である。
村上春樹は団塊の世代の幼稚な生態に、結果的にアンチテーゼを投げかけることになっているように思える。
彼らは村上小説の主たる読者ではないのだろうが、皮肉なことに、「子育てで失敗した」とされる彼らの子供たちが主たる読者層になっているようだ。
とくに傷ついた若者が、村上作品を愛好する事情もわかる気がする。
極度の精神的混乱状況に追い込まれた主人公が「礼儀正しさ」と「規則正しさ」をもってして、しだいに安定を回復してゆく様は、彼らの心をも安定させてゆく効果もあるはずだ。
内田樹もコテンパン時代、喉を通ったのは村上作品だけだったと書いている。
まだ、取り掛かったばかりだが、初々しいこの時期に感想を残しておきたいと考えた。
さて、読書に戻ろう。
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【160128】目の前の事象をいかに「解釈」するかで、困難を乗り越える。たとえ、悲劇に見舞われようと、それは自分が成長するための糧。その事象をいかに「解釈」するかで乗り越えることができるーーそんな内容の本が昨今受け入れられているようである。

目の前の事象をいかに「解釈」するかで、困難を乗り越える。たとえ、悲劇に見舞われようと、それは自分が成長するための糧。その事象をいかに「解釈」するかで乗り越えることができるーーそんな内容の本が昨今受け入れられているようである。
私はこの考え方には違和感がある。
なぜなら、いくら「解釈」を変えようとも「行動」が変わらなければ、何も状況は変わらないからだ。
「解釈主義」は怠惰に流れやすい。頭脳だけの作業で事足りるという安逸さは、具体的に身体を動かすことを厭わせる。
「行動主義」ならそうはいかない。酒を断つ、走る、書くなど、行動をともなうから、自分に対して情け容赦ない。頭で考えた言い訳なんて一刀両断してしまう。
だからといってむやみに動き回っても、「解釈主義」の延長線上だったりする。
「精神力が足りない」と自省した遊び人がナンパ修行に精を出す、なんてことになってもなんの解決にもならない。
では、どうしたら、「行動主義」に立脚することができるのか。
ヒントになるのが、田坂広志先生の「狭き門より入れ」という言葉だ。
二択を迫られたときにあえて「イヤ」と思うほうを選ぶ。
この鍛錬は効き目がある。「解釈主義」の真逆を採用しなければならないことがほとんどだからだ。
その鍛錬の結果、西郷はおのれを「西郷隆盛」にしていった。
英雄は「丸くなる」のではなく「丸くしてゆく」のである。
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【160127】善因善果、悪因悪果。因果関係に根ざして生きることが、戦略的に生きることにほかならない。

善因善果、悪因悪果。因果関係に根ざして生きることが、戦略的に生きることにほかならない。
思わぬ幸運に恵まれたら自重する。不幸に見舞われたら、この先の幸運に期待する。
私が行ってきた断酒やダイエットなどは、この因果律を手元に引きつけ、人為的に運命を操作しようという営みであるといえる。
ところが、この感覚が欠落している人がいると知り、いまさらながらとても驚いている。
「3連勝したから、次も勝つだろう」
「失敗続きだから、次も失敗するだろう」
彼らはこんなふうに考える。私には皆目わからない。
株式投資はやめたが、みんなが絶望的になると買い、ノリノリになると売ってきた。
アベノミクスで上がってきたときに外貨も含めすべて売り払い、その売却益でいまの仕事場マンションを購入した。
今後は株や為替なんぞに煩わされたくないので、金輪際手を出さないが、そんな投資法は投資の神様バフェット流なのだということだ。
話が逸れた。
因果律に対する「帰依」、これが私のいわば宗教心ともいうべきものかもしれない。
高橋御山人とウマがあうのは、こうした「宗教心」が酷似しているからなのかもしれない。
因果律をつねに意識しているから、我々は貪らない。行き過ぎれば制動をかける。過剰は剥奪の元。
「貪り」と「慎み」、これらの按配にその人の戦略が表れる。言い換えれば、貪る者には戦略など必要ない。
コイン掴み取りでおおいに掴んで、手が抜けなくなる。そんな道化者は街の人気者だが、とうてい私にはできないなあ。
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【160126】司馬遼太郎は「自尊心」についてこう語った。

司馬遼太郎は「自尊心」についてこう語った。
「真の自尊心があれば、頭を下げるときに下げられる。そこで変な意地を張ったりしない」
たしかこんな主旨だった。
一方、自殺、貧困、引きこもりに陥る若者たちに共通するのは「自尊心」の低さであるという。
これと、先の司馬発言を絡めると、
謝れないと自滅する。
ーーこういう図式が成り立つ。
謝るということについては、私はかなり前から平然と行えるようになっていた。早くからビジネスを手がけていたことが大きい。謝れないと商売なんてできないからだ。
だが、司馬のいうところの「ニセの自尊心」時代には、たしかに謝れなかった。意地を張って自滅したものだ。
謝れると、自分を追い込むことがなくなる。
ひとたび謝ったからには、ボールは相手に渡っているという気楽さもある。
だがこれができないと、自分ですべて抱え込むことになる。これはたいへんな重圧である。
そう考えると、若いころにしゃあしゃあと謝れる訓練を積んでおくことは、自分を追い込まないための予防策になるかもしれない。
ひところ、裁判で負けるから謝るなという愚かしいことがいわれていたように、世間全般的に謝るの(というより譲歩)を忌避する傾向が強まっている。
そんな時代の気分をもろに受けてしまった幼稚な人びとが自滅に向かうのもむりもない。
「自尊心を持て」といわれて、「はい、明日から持ちます」なんて言える人はいない。
まずは、謝ること。言葉を換えれば譲歩するという具体的行動を、機会があるたびにとってみる。
こんなことから「真の自尊心」が醸成されてくるのかもしれない。
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【160125】孤独死した人たちには、共通の口癖というのがあるらしい。

孤独死した人たちには、共通の口癖というのがあるらしい。
それは「人の世話になりたくない」というものだ。なお、ここでいう「人」には子供や親族も含まれる、というより主に子供のことをさす。
この言葉だけみれば、殊勝な心がけといえるかもしれないが、さにあらず。
これは「おれは人の世話にならないから、世話もしないよ」という決意表明とみるべきであろう。
60歳で孤独死したある男は40代でリストラされた。そのとき彼は、「家族に迷惑をかけるから」といって離婚して行方をくらました。
まともな人間であれば、この言い分に異常性を感じるはずだ。ふつうなら、家族に迷惑をかけないように、再就職なり起業なりして奮起するものである。
だが彼は、ここぞとばかりに「しがらみ」を断ち切って逐電してしまった。
「迷惑をかけるから」というのは言い訳で、要は「逃げたくなった」という気持ちに素直に従ったというだけの話ではないか。
「やりたくないことをやらない」ではさすがに通用しない。そこで美辞麗句が免罪符になる。
「迷惑をかけるから」「世話にはならない」といった言い訳や弁明は、ひと昔前なら、「ばかも休み休み言え」と一蹴されたであろう。
現代社会の恐怖というものは、こんな言い訳が通用してしまうところにある。
先日も、女子高生の遅刻の理由がひどいと2ちゃんでみたが、たしかにひどかった(ぜひご覧あれ)。
孤独死者も遅刻女子高生も、自分の言い訳が通用しているのは「自分」だけであるということがわかっていない。
聞かされている相手は納得していないのに、自分だけ納得している。この乖離が、社会に出たときに表面化してくる。
言い訳で欺けるのは、愚かな自分だけなのである。
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【160124】家内が患った。膝がひどく痛むという。

家内が患った。膝がひどく痛むという。直後、ネットニュースで「これだ!」という記事を発見した。
運動不足でぶらぶらしていると発症する「隠れ炎症」が流行っているらしい。いうならば「怠け病」である。
国会議員の秘書だというので、よほどの働き者だろうと思って見合い結婚したら、とんでもなかった。家内ほどの怠け者はこれまでの人生でみたことがない。
我が両親と3世代同居しているが、その理由も「そのほうが楽だから」というものだった。
当初はその怠惰ぶりに怒ったり呆れたりしていたが、最近はそうでもない。
というのは「妻」としてはともかく、「母」としてはむしろ怠け者のほうがよいと知ったからである。
へたに働き者だと仕事にかまけてしまい子供によくない。子供にとっては、母親はいつもいるほうがよいにきまっている。同居する爺婆、隣近所の親類縁者の存在も子供にとっては大きい。
仕事と育児、現代人にとっては仕事のがよっぽど楽だ。育児など、よほどののんびり屋でなければつとまらない。子供にふりまわされながら、単調な1日を送れるのは一つの能力であるといえる。
家内は家計に貢献しようという気持ちはさらさらないが、そんなものは私が稼いでくればいいだけのことだ。
どこで何をしていようと、何も言ってこない放置ぶりも最初は寂しく思ったが、志に目覚めたいまの私にはありがたい。
そういう点で、我が夫婦は変な感じでうまくいっている。
働き者は常在戦場、前線でバリバリ働く。怠け者は銃後でのんびりと育児と親や近所とのつきあい、そしてテレビをみながら1日を終える。
こうした分業はむかしは一般的であった。
だが、核家族化の進展と男女雇用機会均等法施行あたりから様相が一変した。
洗い物から育児まで、あらゆる家事がタスク化され、それらを同等に受け持つという陳腐な思想が蔓延してしまったのである。
働き者が存分に働き、怠け者が存分に怠けながら共存する。
いま求められるのは、「男女」共同参画社会ではなく、そんな「勤怠」共同参画社会ではなかろうか。
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【160123】いずれ酒を飲むことになるかもしれない。

いずれ酒を飲むことになるかもしれない。
そこで元の木阿弥にならぬよう、いまのうちに方針を定めることにした。
1 人前では飲まない。自宅の庭か書斎、仕事場のベランダかこたつ、あるいは旅先の飲み屋でひとり嗜む。
2 酒席では飲まない。酒を交えての席にはできるだけ出ない(出てもノンアル)。
3 飲んだことは明かさない。むろんフェイスブックなどには書かない。断酒看板は下げない。
4 1回あたりせいぜい2単位(ビール500ml、日本酒1合が1単位)、時間は1時間まで。
5 先々、利休が茶の湯を創出したようなひとつの「酒」の体系を確立するべく、料理やしつらえなどを凝らしながら「道」を確立するための機会にする。
何ごとも方針なく関わると、あとあとよろしくない。
出来しかねない危機に対して丸腰は危険だ。
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【160122】不眠のことを調べていたら、面白いことがわかった。

不眠のことを調べていたら、面白いことがわかった。
中世ヨーロッパでは、人びとは夕刻眠りについてから、一度起き出して活動したという。
友達の家に行って語らったり、街で遊んだりしたというから、なんとも優雅ではないか。
昨年末以来、7時寝に取り組んでいるが、どうにもうまくいかない。たいてい9時か10時あたりに目が覚めてしまう。そのまま仕事にとりかかったり走りに出て、夜更けにもう一度寝につく。これは、中世ヨーロッパのスタイルだったのだ。
さて、上場企業の経営者の半数が睡眠薬を服用しているという。本当かどうかはわからないが、それもこの話と絡めることができる。
歳をとると、連続睡眠ができなくなるし、ましてや経営者のようにワクワク(「重圧」「ストレス」と感じる経営者ではそもそも不適格ではないか)する仕事に就いていれば、寝ていてもすぐに目覚めてしまうのだろう。
かといって、そのまま起き抜けてしまえば、翌日の昼間のスケジュールに響く。
経営者たちはやむなく夜間眠るほかないのである。だからやむなく睡眠薬を飲む。これが実相ではないか。
2回眠れるのは幸せであったのだと知って、このところ苦にしていた「睡眠障害」を克服できた。物は考えようといういい例だ。
これが酒飲み時代だったら、2度晩酌してしまっただろうな。
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【160121】原稿がひと段落したとたん、生業のコンテンツビジネスに大きな注文が入り、日がなCDを焼いている。

原稿がひと段落したとたん、生業のコンテンツビジネスに大きな注文が入り、日がなCDを焼いている。こういうときは、YouTubeの動画を固め視聴するにかぎる。
私がみるのはたいていドキュメンタリーだ。昨日は、女性の貧困と引きこもりをテーマとしたものをかなりみた。
貧困に陥っている女性には共通点があって、それは「夢を追いかけているが、実態がともなっていない」というものだった。
たとえるなら、「東大、最低でも早慶に入りたいが、偏差値が今のところ40ちょっと…」。こんな感じだ。
これだけなら、世の中にたくさん該当者がいるが、彼女らが特異なのは「多浪」している点である。6浪、7浪しているような感じなのだ。
執拗さは成功に不可欠の要素であると、司馬遼太郎先生はよくおっしゃる。
そこまでの執念深さがあれば、思いを実現できそうなものだが、彼女らは浪人は繰り返すが、ふだんはあまり「勉強」をしていないように見受けられた。
つまり、執念深さと淡白さが混在しているのだ。
この習性はどこで植えつけられたのか?
それはまぎれもなくテレビであろう。
じっさい、NHKの番組に生出演していた女性タレントはつい口をすべらせた。
「テレビとかで映し出されているのは商品化された世界であってーー」
その後は濁されたが、「真に受けてはならない」だったのではないか。
そう、素朴な子がテレビで見た夢物語を実践してしまった結果というのが実相のようだ。
これは何も女性にかぎった話ではない。ピュアなおやじも罹患していて、生活に困窮している。
本件を語る番組に出演するセレブリティたちがどこか奥歯に物の挟まったような言い方をするのは、夢物語のリアルを熟知した上でのし上がってきたことに対する後ろめたさによるものだろう。
そのあたりまで語れるのなら、テレビをみる価値があるのだが、それは無理な注文というやつだろう。
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【160120】過日遭遇した慈善おじさんが「不登校児を学校復帰させるためにがんばっている」というので、私はついこう言ってしまった。

過日遭遇した慈善おじさんが「不登校児を学校復帰させるためにがんばっている」というので、私はついこう言ってしまった。
「彼らは未来の起業家だったり、アーティスト(アーターではない)だったりするんで、あんまりかまわないでやってくださいね」
刺激せぬように言ったつもりだが憤然とされた。思ったことをそのまま口に出すのは、私の悪い癖だ。
さて、世の中には、学校の勉強が向いている人もいれば、向いていない人もいる。
司馬遼太郎は「学校」をつねに恨み節で語ったし、村上春樹もけっして心地よい場としては語っていない。
私は母校(桐朋中高)がいい学校だったので、不登校にならずに済んだが、体質的には不登校予備軍であろう。
もし、不登校になったら、やはり起業していたのではないかな。
想定で話してもしかたがないが、少なくとも慈善おじさんの差しのべる手は払いのけたことだけはまちがいない。
必要ともされてない手を差しのべるよりも、現役の社会人としての「背中」を彼らに示すことが何よりもの社会貢献だ。
相手が乞うのならともかく、求められてもないのにノコノコとコーチを買って出るのはダンディではない。カラオケで熱唱するのをむりやり聞かせるようなものだ。
先輩づらして御託を並べるより実績で示せ。
これは、いかにも慈善おじさんになりそうな自分への戒めでもある。
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【160119】坊やは私の性格を受け継いだようである。とても臆病、神経質、細かい。

坊やは私の性格を受け継いだようである。とても臆病、神経質、細かい。いずれもよくないとされる気質であるが、私はとてもうれしく思う。
というのは、これらの気質の持ち主こそが「勇者」になりうるからである。
司馬遼太郎もこのことは、よく述べている。臆病だからこそ緻密に調べ上げ、周到に準備してことに臨める。大将の重要な資質の一つであると。
これは実感する。私も根が異常に臆病なものだから、そう思われないよう奮起してきた。いわば演技してきた「役」がしだいに私の性格として定着してきて、気づいたら豪傑キャラとして受け止められることが多くなっていた。
生まれつきの性格のまま一生を終える男などまずいない。神童は凡夫となり、寝小便たれが歴史を動かす。
だからスタートラインなど低いほうがいい。なぜなら、「連戦連勝」を味わえるからである。
本人と私のような伴走者で一個の男はつくられてゆく。だいじなことは、「かわいそうだ」と母親がつぶさないことだ。
坊やは脱母親に成功した。つぎに問われるのは私だ。
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【160118】知り合いが夜のバイトを始めた。警備員か倉庫などの肉体労働らしい。同時に、彼はMBAの勉強も始めたという。

知り合いが夜のバイトを始めた。警備員か倉庫などの肉体労働らしい。同時に、彼はMBAの勉強も始めたという。
どういう事情なのかよく知らないので、「生活が困窮したので、MBAを取得して挽回しようとした」という「別人」を設定して話を続けることにする。
以前、渡部昇一先生がラジオご出演の際、「勉強ほど怖いものはない。へたに勉強すると一生を棒にふる」とおっしゃっていた。
そう、勉強はリスクなのである。
勉強というと、無条件でよきものと認識されているが、そうではない。
戦略なき勉強は地獄の一丁目。終わりなき泥沼に身を投じることになりかねない。
司法試験に受かれば一生安泰だと思って挑むが、もはやそう甘くはない。お客さんがつかなければ、弁護士だろうと医師だろうと食いっぱぐれる。今後ますますそういう傾向が強まること必定だ。
だから、やみくもに勉強に走ってはならない。転職、結婚、起業、入信なみのリスキーな取り組みだからだ。
勉強に打ち込んでいれば、目先の自己充足感が得られる。それがくせものだ。それに溺れてしまいかねないからだ。
長期戦略の上に位置付けられた勉強でないかぎり、目の前の仕事に打ち込むほうがよっぽど我が身のためだろう。勉強に逃げてはならない。
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【160117】ようやく230ページまで絞り込んだ。

ようやく230ページまで絞り込んだ。当初500ページ以上あったので、半分以下に削ったことになる。
完成のめどは立ったが、まだこれを世に出す算段が立っていない。
本を紹介するラジオ番組を15年やってきたので、ある程度業界のことも知っているし編集者に知己もいる。
だが、みずからデビューするとなると話がちがってくる。なぜなら、過去の蓄積の総体とはならないからだ。
どこからどう切り出すかが肝腎だ。雑巾がけから始めるつもりはない。いきなりメジャーデビューする。
そうなるとまず指針を定めなければならない。
それを、以下の3点とした。
1 私の作品に惚れ込んでくれない編集者とは話を進めない。
2 新潮新書、文春新書、講談社現代新書の3つのいずれかで刊行する。
3 著者買い取りの予算は100万円を上限とする。
またもやトラタヌばなしを繰り広げているが、思い描いたことはけっこう実現するものだ。
ましてや、こんなところで公言してしまえば引っこみがつかない。こうやって自分を追い立てながら活躍させるのも、中年ならではの味わいといえる。
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【160116】世間との交流を減らせば減らすほど、夫婦仲がよくなっている。

世間との交流を減らせば減らすほど、夫婦仲がよくなっている。
ふつうこういう場合、世間にまわしていた時間を家内にまわした結果、良好になったと思われることだろう。
だが、そうではない。家内との会話も激減した。いまや週に原稿用紙2枚程度だ。
べつに仲が悪いわけではない。大家族なので、占有率が下がったに過ぎない。
家内は専業主婦だからいつも家にいるが、子供ふたり、我が両親、妹やら叔父叔母、さらにはママ友と話し相手には事欠かない。
「勝因」の最たるものは、私が家内にちょっかいを出さなくなったことだろう。
飲んでいたころは、よくつきあわせたりしていたが、それがなくなった。
また最近は日々没頭しているので、私が寡黙になってきたこともあるかもしれない。
世間は「夫婦の会話を増やせ」いうが、それには反対だ。夫婦の会話は減らしたほうがいい。
会話を減らせば、阿吽の呼吸が身につくからだ。以心伝心こそ最強のコミュニケーション法だろう。
飲まず、食わず、遊ばず、出歩かず、そしてしゃべり散らさず。いままで私が淫してきたことがことごとく葬り去られてゆく。
五穀を断って即身仏になった先達たちの如く、私も五淫を断って即身仏マンになるとしよう。
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【160115】餅の消費量が異常だ。

餅の消費量が異常だ。
年末についてもらったぶんは早々になくなり、その後、切り餅大袋を補充すること3度である。
仕事場で食うのはたいてい雑煮だ。
市販の昆布つゆに野菜、椎茸、唐辛子、つみれだんごを入れてグツグツと煮込み、最後に餅を2個3個放り込む。
ひと息ついて、茶やコーヒーをいれるときは、きな粉餅をつくる。
餅を2個浅い皿に入れて水で浸して、電子レンジで1分。
ゆだった餅にきな粉をまぶし、最後に黒蜜をかける。
世界で「サイレントキラー」として恐怖される餅だが、小さく切るなり、食う前に水を飲むなりすれば、つまり予防になる。
さて、餅を常用するまで、そのポジションは小麦が占めていた。鍋に入れるのはうどんであったし、おやつはクッキーだった。
小麦はよくないというし、米は肥るという。消費社会は何かと騒々しい。
そんなどうでもいいことを知っていると、飲み会での話題に事欠かないがその程度の価値でしかない。
男子たるもの、知っていることがむしろ恥ずかしいことであり、仮に知っていても口に出さないようにしたいものだ。
武士は食い物のうまいまずいはいわないものとされた。
いまの世の中ではすっかり風化した美意識であるが、私はその戒めを守っている。
餅がうまいかまずいか、それは語らぬが、主食も間食も間に合わせることができる餅は何かと重宝である。
持ち歩きにも便利なので、懐中にしのばせておけば、山で遭難したり、帰宅難民になったときも安心だ。
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【160114】耳の痛い話を聴きたい。

耳の痛い話を聴きたい。
なぜなら、自分の戦略に磨きをかけたいからだ。
だから、私もお役に立とうと、できるだけ「耳の痛い話」をしようと心がけている。
だから、耳の痛い話に怯む人は離れて行く。それはそれでいい。「豪傑」だけ残ってもらいたい。
私の言説など、ふつうに生活しているだけで、早々に抵触してしまうようなものばかりである。
飲み食いするな、出歩くな、フェイスブックでチャラつくな。こんなメッセージばかりだ。
にもかかわらず、食らいついてくださるみなさんは「豪傑」としかいいようがない。
重量感あふれる顔ぶれをみて、励まされているのは私自身なのかもしれない。
何もかもがあり余っている「余剰社会日本」。
ここで生きるためには、勝手に期待されていると思い込み、勝手に期待に応えるという「過剰精神」。これこそ明るい未来のエネルギーである。
これが志につながる可能性も高い。
これからの時代、志で暇をつぶさはければやりきれないだろう。
それが得られず、手っ取り早く飲み食いに走ってしまうと、「復帰」がいよいよ困難になる。
昨日、「おのれの年齢を直視せよ」と述べた。これに続く助言として、「人間関係を見直せ」と提言したい。
具体的かつ露骨にやればかどが立つ。ゆっくりじわじわと離脱していくのだ。
どこからか?
その絞り込みにころ、おのおのが腐心せねばなるまい。それが戦略を決定づける切所というやつであろうから。
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【160113】「成功体験」というものは往々にして「若さ」にともなう優遇体験に過ぎない。

「成功体験」というものは往々にして「若さ」にともなう優遇体験に過ぎない。
若いから受け入れられた。若いから許された。若いから任された。若いから引き上げられた。
これが現実なのに、それを「実力」だと勘違いしてしまうと、世のすべての事象が逆さまになって見えてくることになる。なぜなら我々は歳をとるからである。
周囲を見まわしてみると、「25歳OS」のまま30代、40代さらには50代を迎撃している人がいる。
そんな古ぼけたOSは一刻も早く切り替えねばなるまい。
だが、パソコンならそう対処しても、おのれの人生でアップグレードしている人は数少ない。
アップグレードせずとも、そういう現実があることを知ってもらいたいものだが、「都市」にはそうした機会も機能も乏しいから、それも困難だ。
年寄りになっても「若者」として遇され、「若さ」を至上の価値とする異常空間。
いつまでも「若者」のままで生かされてしまうのが都市というものだ。
成熟社会の人生戦略は、都市の異常さに気づくことから始まる。
都心で暮らすのはラスベガスでホテル暮らしをしているようなものだ。
勝ち逃げするか、せめて負けがこむ前に逃げ出すべきだろう。
かといって、そのために身を都市の外に置く必要はない。意識の置き場所を変えるだけでいい。
そのための第一歩は年齢を直視すること。自分の日常は年相応か、それをおのれに問うてみてみるのである。
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【160112】売れたときに備えて、行動指針を定めておこう。

売れたときに備えて、行動指針を定めておこう。
こういう狂気のトラタヌがおのれを奮起させるものだ。
1 儲け話、借金依頼は門前払い。
2008年にそう決めたが、問答無用、これを堅持する。
2 「相談」は有料とする。
弁護士や税理士などの利用者としての経験値が高いのでよく相談を受ける。今後は「業務」として受託する。1時間1万円、場所は八王子のエイトビート。
3 役員・役職に就任しない。
責任が発生するいっさいの役職には就かない。
4 面会しない、来客を受けない。
志の実現に資する案件以外は面会しない。メールなどで済ませる。
5 紹介しない、紹介されない。
これも志の実現に資する案件のみ。
ーーと結界を張った。
世の事象を観察すると、ポジションを維持できずに転落してしまう人たちはこうした予防線を張ることに無頓着である。
落人としてまがりなりにも再起を期すことができるのは、こうした未来に対する想定をつねにしてきたからであろう(とはいえ、それが甘かったから落人になったのだが)。
取らぬ狸の皮算用?
たしかにそのとおり。
嗤わば嗤え。自分でも嗤ってしまうくらいだ。
posted by 雄峰 at 10:56| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160111】過去に2度、寝ても覚めてもという「没頭」を体験したことがある。

過去に2度、寝ても覚めてもという「没頭」を体験したことがある。
1度目は大学2年の秋、学習塾で起業したときだ。
山梨県大月市の古びたビルの一室。2間の1つを教室、もう1つを事務室として使っていた。
事務室にはもらってきた古畳を敷いて、その上にコタツを置いた。寒さ厳しいなか、よく泊まり込んでは教材や募集チラシを作ったものだ。
2度目は29歳のとき。銀座1丁目にある恩師の会社の片隅を間借りした。
世が元旦だろうとゴールデンウィークだろうと無関係。眠気に耐えられなくなると、床にシーツを敷いて毛布をかぶった。
仕事を終えた夜更け、自転車で皇居前広場、北の丸公園、靖国神社を走り抜けて帰宅した。その爽快感は、いま思い出しても身震いがする(だが、記憶はそれくらいで、当時の心情というものがちっとも思い出せない。なんだか自分のこととは思えない。何かに取り憑かれていた。そういわれるほうがしっくりくる)。
そして、3度目が「いま」である。寝ても覚めても原稿書き。生業をなかば放り出して、日夜没頭している。
「いま」も後になると、実感のともなわない日々なのであろうか。
「ほんとに俺がやったのか?」と振り返ることになるのだろうか。
そのときは隣で寝息を立てている坊やが証人になるだろう。この熱狂を覚えていて、私に昔語りしてもらいたい。
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【160110】「穴熊宣言」をしたとたん、なぜか訪客が相次いでいる。

「穴熊宣言」をしたとたん、なぜか訪客が相次いでいる。
昨日は名古屋から会社の先輩、今日はお世話になっている大学教授が京都から。来週あたりで調整している件が一つ。
だが、ひとついえることは、ひじょうに「上質」であるということ。
上質なんて言い方はやや品が下がるかもしれない。だとしたら、志に直結している人間関係とでもいおうか。
こういうものなのだろう。目に見えない因果関係や脈絡というものはまちがいなく存在する。
その鉱脈にいかにしてコンタクトするかが人生攻略の要諦なのだろう。そしてそれは「真空」をつくるということでしかどうやら得られない。
冗長肥大化してきている人間関係を断ち極限まで絞り込むと、そこに真空が生まれる。
そこに求めている関係性が流れ込む。どうやら、そんなふうにできているらしい。
この法則に気づき、安定回路を構築した人たちがいわゆる成功者となっているようである。これは、15年間のラジオインタビュアー経験を通じて得た学びの最たるものだ。
だが、わかっていても行動できるものではない。行動を起こせる自己を確立する。まずはこれが先決だ。
ダイエット、断酒、オナキン。なんでもいい。成果をあげることで、エネルギーを充填することだ。
放出していては、いつまで経っても立ち上がることはない。
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【160109】過日、酒を飲んでみた。瓶ビール1本と日本酒1合を1時間半ほどかけて恐るおそる。

過日、酒を飲んでみた。瓶ビール1本と日本酒1合を1時間半ほどかけて恐るおそる。
飲みたくて飲んだわけではない。飲んだらどうなるのか、この段階でそれを試してみる必要があると考えたからである。
結論からいえば、どうということはなかった。
久々に飲んだビールは高校時代の味わい。麦芽の香ばしさがなつかしかった。
うまいといえばうまかったが、そこまで。やはり飲みなれているほうがうまく感じるようだ。
日本酒のほうがいくぶん感慨深かった。あまたある酒のなかから一つだけ飲んでいいといわれれば、日本酒を選ぶだろう。
ともあれ、飲酒実験は無事終わった。その後もつつがなく飲まずにいるところをみると、断酒は定着したといえよう。
それにしても、飲む前の緊張感はなかなかであった。
若かりし日に、仲間と連れ立って悪所に足を運んだとき以来かもしれない。
年をとるということは、こうしたドキドキを失っていくことなのだろう。
それはもはや、おのれに求めにくい感覚かもしれない。
坊やの心と身体を通じて、代理体験をするほうが愉快に思える。
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【160108】思い起こせば、私のフェイスブック観は木下裕司によって初期設定された。

思い起こせば、私のフェイスブック観は木下裕司によって初期設定された。
裕司は著者として、ネットビジネスジャンルの本をよく書いている。私の番組にも出演してもらっていた関係で、彼からフェイスブックを紹介されたのが始まりだ。
そのとき彼がいったのは、「フェイスブックは儲かる。とにかくたくさん友達をつくって、記事を書いて、いいねをつけてもらうべき」というものだった。
彼はじっさいそのとおりにやって、早々に友達を5000人つくっていた。
私にはそこまでやる興味と気力はわかなかったので、成り行き任せにしていた。
だが、いまこうしてフェイスブックを省みると、裕司が言っていたのは、どうやらフェイスブックの「マルチビジネス」的活用法なのだろう。
ネットワークをたくさん構築し、そこに景気のいいネタを流して信奉者にしていく。この手法はマルチビジネスではよく行われる。
フェイスブックへの取り組みにおいて煮え切らない思いがあったのは、どうやらここに淵源があったようである。
ちなみに私はマルチビジネスはやったことがないが、どちらかというと肯定的である。
いまは亡き船井幸雄先生からじかにご教授いただいて認識が改まった。
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【160107】10年前の私は、毎日遊ぶほかなかった。

10年前の私は、毎日遊ぶほかなかった。
日々飲みあるき、しょっちゅう旅をして、また飲み食い。寄り集まってはまた飲み食い。
生活に困っていればまだよかった。それならば懸命に働くしかないからだ。
有閑おやじの「ゆとりライフ」は、当人にとっては、じつはのんきなものではない。
人生賭ける対象も見出せぬまま、憂悶やるかたない日々を送ることは、働き盛りの男にとって心身の毒でしかない。
今後、私のような手合いが増えてくるだろう。食うには困らぬが、燃焼する対象もなく遊んでばかりいるおやじ。
フェイスブックで楽しそうな様を公開して、いいねを糧に生きたとしても、有閑おやじの心に吹きすさぶ寒風はやむことはない。
燃え尽き症候群ならぬ「不燃症候群」ーーこれがいずれ社会現象となり、社会病理となっていくだろう。
燃焼する対象が得られぬことを苦にして精神を病んだり、犯罪に走ったりする。そんな時代を前に、我々は何をすべきか。
処方箋は遊びはむろんのこと、趣味でもない。
世のため人のために何ができるか。それを考え行動することではないか。
天賦の才の発揮のしどころを求めて、真田幸村は真田丸を築いた(ドラマはみてないけど)。
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【160106】フェイスブックとは何か? それは「飲み会」である

フェイスブックとは何か?
それは「飲み会」である
ーーこれが私の行きついた答えである。
タイムライン上に現れる友人たちとのおしゃべり。あれ食った、どこ行った、誰と会った。いずれも飲み会の話題だ。
「こんど連れてって」「OK!」といった空虚なやりとりから、酔客の暴言まで、リアルの飲み会と変わらない。
こういう視点でながめてみると、フェイスブックをさかんにやっている人たちは飲み会好きだし、飲み会好きはフェイスブックによく投稿している。
私が飲み会から足が遠のき、それと同時にフェイスブックからも遠のいていったのは当然の流れだったのかもしれない。
さて、フェイスブックが飲みの席だということになると、私がフェイスブックで行ってきた言動は非常識であるといわざるをえない。
いってみれば、飲み会の席で滔々と自説を展開するようなものだからだ。
だが、思い返してみると、私は飲み会でもそういうことをしてきた。
これでは、飲み会の作法をわきまえていないと非難されてもしかたがない。
自論を述べたいのなら、酒の席ではなく、しかるべき場で行うべきであったと反省している。
posted by 雄峰 at 10:46| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160105】いよいよフェイスブックのタイムラインを見なくなった。いまや1日1回程度であろうか。

いよいよフェイスブックのタイムラインを見なくなった。いまや1日1回程度であろうか。
坊やの世話に忙しかったこともあり、寸暇を惜しんで仕事をしていたことが幸いした。暇でなければSNSもできない。
思えば飲酒も同じであった。暇だったから飲んでいたのである。
橘川幸夫氏の著書『暇つぶしの時代』が刊行されてもう15年になる。
本書で描かれたことがいま、つぎつぎに現実のものとなってきている。
通勤がない。取引先や顧客との接点がない(じっさい私は取引先のアップルの担当者ともコンテンツの購入者とも面識がない)など、仕事をめぐっての一大「労働環境革命」が進んでいる。
我々は知らず知らずのうちに「ヒマ人」になってきているのである。
この隙間に何が入り込むかといえば酒でありSNSである。
これらは暇つぶしの材料としては有能で、「それなりの意味」を付加することができる。だが、これが厄介だ。
時間と労力とカネ(オフラインでのつきあいやお出かけ)を投入して、記事というそれらしいエセ作品を生み出すことができる。これが「免罪符」になってしまうからである。
サラリーマンならまだいい。これが自由業ともなるととめどもない。どこまでも亡国の遊戯にまみれることができる。
私は労働環境革命のフロントランナーであった。
同時に、革命の初期段階によく現れる、そそっかしいお調子者なのであった。
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落人日記 (117)


4歳の坊やとかれこれ1週間合宿生活している。
世の男の子がお母さんべったりの時期ではあるが、私とウマが合い、いっしょにいることを好む。
家内が里帰りするのにも同行せず、私と仕事場で日々過ごしている。
三度のご飯の支度からシモの世話まで何かと忙しいが、彼との生活は楽しい。
これだけまとまった時間を子供と過ごすことはなかなかできない。やってみてわかったことは、育児はたいへんであるということ。
四六時中みるのと、空いた時間にかわいがるでは雲泥の差。経営者とバイトなみの違いである。
世の母親が保育園に預けたがるのもわかる。仕事のがよっぽど楽だ。
このあたりの温度差は、夫婦間の諍いの元となるのだろうなあ。
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落人日記(116)


この1週間でケータイの受着信が3件。メールもほとんど来ない。ありがたいことだ。
起業した2000年頃、1日に受着信が30回、メールも30通はくだらなかった。当時はそれが誇らしかった。
いまはこの静けさが誇らしい。ガチャガチャとやりとりせずとも、稼働しているという証左だからである。
若いころの活発なコミュニケーションは行動の糧になる。だが、歳をとってからのそれは苦痛の種になる。
加齢による体質変化を踏まえて切り替えないと、40代後半あたりでクラッシュしてしまう。
いきなり移行することはできないから、コミュニケーションを着実に減らしながらも、質の高い仕事ができるように一歩一歩整えてゆくべきであろう。
それに際して、SNSの扱いについて方針が定まらない。
広く門戸を開いておくべきか。それとも、あらかじめ制約を加えておくべきか。
先達たちの取り組みを調べて、それを取り入れることにしよう。
posted by 雄峰 at 10:44| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落人日記(115)


年初ということで、1年の抱負を考えてみた。
1 呼びかけない。主催しない。誘わない。
2 会わない。人脈を広げない。参加しない。
3 遊ばない。出歩かない。興味を持たない。
いずれも、人生後半を迎えるなか、志に生きる男としては妥当なところであろう。そろそろ、まじめに生きたいのである。
思えば、これまでの人生、無為無用無駄なことばかりしてきた。もう遊ぶだけ遊んだ。
もはや心残りはない。心残りどころか、もううんざりである。
抱負のとおり、無味乾燥な日々を送ることで、人生の滋味を見出したい。
正岡子規は「病牀六尺」からだから世界をみることができた。
動き回っていては、静思できない。ひとまず静寂のなかにどっぷり身を沈めることだろう。
posted by 雄峰 at 10:44| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落人日記(114)


変な時間に目が覚めた。午後11時40分、元旦を迎える20分ほど前だ。
今ごろ紅白歌合戦の勝敗が決して、ゆく年くる年が始まる時間であろうか。
今年は家内と娘は里帰り、両親は旅行なので、坊やと二人で年越しだ。
とはいえふだんと変わらない。坊やも大晦日の意味なんてまだわからない。私と一緒に7時に寝て、いまもすやすや寝息を立てている。
過日「記念日を撲滅する」と宣言した。
一年の計は元旦にあり。元旦を記念日にしないことで、1年を無事、平常運転で乗り切れる。
「きょうは特別」とやっていれば、とめどもなくなるのが現代の消費社会だ。その術中にはまらないためにも、お正月こそ淡々と送るべきだと考える。
せっかくの早起きだ。そろそろ仕事にかかるとしよう。
posted by 雄峰 at 10:38| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落人日記(113)


いつの頃からか、背中のコリがひどい。心臓の裏あたりだ。
この筋は大胸筋と左手薬指につながっているらしく、コリがひどいとこれらも緊張するのか違和感が強まる。
両者の関係は把握していたのだが、これに頚椎の状態が絡んでいることを発見したのはつい最近のことである。
首を曲げるとけっこう痛みがあり、これが背中の筋肉に作用しているようだ。
問題の頚椎についてはせいぜい加齢による支障程度に思っていたが、じつは明瞭な原因があった。原因とは、枕の高さであった。
正確にいえば枕ではない。私は高校生のころから、バスタオルを丸めて枕がわりにしていた。
暑いときは気持ちよく、いつでも清潔。さらには高さが自在なので、とても重宝している。
だが、寝ながら読書するくせがあり、それが習い性になって、いつしか枕を高くするようになっていた。これが頚椎にダメージを与えたようである。
そこで1週間ほど前から、枕を低くしてみた。すると覿面。首には若干痛みが残るものの、背中のコリも指先の違和感もだいぶ緩和した。
かように、身体というものは関係しあっている。デブだったときは贅肉が多すぎて、そうした因果関係がよくわからなかった。
余計なものを除去することで、物事の本質は見えてくる。
これは身体にかぎらない。暮らしぶり、人間関係、仕事などについても、余計なものを排除することで、本当にたいせつなものが見えてくるようである。
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落人日記(112)


近くの薬屋のおばさんは職業柄、健康にくわしい。おまけにおしゃべりなので、お客の課題についてこと細かに説明してくれる。なので、しまいには薬がいらなくなってしまう。
最近便秘がひどいので、その薬屋に出向いた。すると「コーヒーとかお茶を飲みすぎるとカチカチになるのよね」といきなり図星。
「ダイエットして痩せたあとの冬場とか」とまたもや図星。
「コーヒーやお茶を減らして、お水とか白湯とかたくさん飲めばよくなるのよね」と薬無用のアドバイス。
とはいえ何も買わぬのも無慈悲だと思い、当初予定の漢方便秘薬を購入した。
こいつを飲まずにすませたい。まずは白湯とやらを試してみることにした。
お湯とのちがいは、沸騰後、5分程度煮沸する点。これで余計な物質が除去されて、デトックス効果のあるピュアな飲料になるのだそうだ。
つくって飲んでみたが、意外と飲める。うまいとすら思える。
白湯というだけで茶事のようだ。我が日常にこだわりは無用と考えるが、丹精込めることは肝腎だと考える。
5時以降は白湯にしよう。以前なら飲み始めた刻限に、こんなものを喫するとは思いもよらなかった。
posted by 雄峰 at 10:37| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落人日記(111)


子供と一緒にいると、世間様とはじつにあたたかいものであることに驚かされる。というより、ふらつく中年男に世間は冷たいというべきか。
たとえば寂れたローカル線の小駅を訪ねたとしても、中年男ひとりでいるか、かたわらに子供がいるかでは人の見る目がまったく違ってくる。
昨日今日と、坊やと新潟を旅した。新津鉄道資料館が主目的であったが、行きに、池袋で開催された鉄道模型展、帰りは鈍行でえんえんと帰ってくるという鉄旅であった。
道中、坊やはおじさんおばさんから食べ物をもらったり、頭をなでられたりする。鉄道員もシールをくれたり、皆さん何かとあたたかい。そのたびに父の私もにっこりする。
見知らぬ人とのこうしたコミュニケーションはもう長いことなかった。というか記憶にない。
歳をとり、いつの間にか、外の人びとを「敵視」するようになっていた。これがすれたということなのだろう。
こっちがそういう気配を出しているから、向こうさんだって親しみ深くなろうはずもない。かくして、寒々とした空気が流れるのである。
そういう軋轢を、もののみごとに解毒する子供の存在は得難い。
もはやひとりで旅に出たいという気持ちも萎えた。だが、坊やとともに世間と向きあうことで、今まで知らなかった世間にふれられる。
「老いては子に従え」というが、この言葉の意味もあるいは、歳をとったら、子供の旅にお供せよという意味なのかもしれない。
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落人日記(110)


原稿を一巡させるたびに2割程度削ることができる。このペースであと2巡すれば、新書の分量に落とし込めそうである。
昨年は家族企業の面倒にあけくれていた。その前の数年は、原発事故を受けての疎開やら、子育てやらに忙殺されていた。
30代の私はいちおう事業家であったが、実質的には酔客であった。
思えば30歳前後の数年しか猛然と仕事に取り組んでいない。こんなていたらくでは人生は終われぬ。
ということで、今年は一念発起。数年来あたためてきたテーマについてまとめ始めた。
私の人生の主題は「男が元気溌剌に生きてゆくための心得と術」である。
司馬遼太郎の小説の解題、村上春樹の小説の対偶という位置づけであろうか。要は男の生き方を考え、共有してゆきたい。
ただし、そんな主題で妻子をやしなうのはなかなか難しい。
ようやく今年初頭から諸事おさまり、いよいよ取り組める状況が出来した。
この一年の断酒やらダイエットやらはそのためのコンディションづくり。本番はこれからだ。
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落人日記(109)


「あいにくの雨」というが、私にとっては心躍る雨だ。なぜ世の人びとは、こんなに雨を嫌うのだろうか。
昔ならわかる。舗装されていない道はドロドロにぬかるみ、歩くのにたいへん難渋した。
いまのような衣類もなかった。衣服には、あっという間に雨が染み込み身体を冷やした。へたに風邪をひいたら死にかねない時代だ。
山中でいきなり雨に見舞われたら、雨宿りする場所もない。大木のうろや岩屋、ましてやお堂などはそうは見つかるものではない。
こうした時代の雨のしんどさは察するに余りある。
思うに、こんにち人びとが雨を厭うのは、この時代の気分の残滓によるのではないか。
先祖代々、「雨はいやなもの」と言い聞かされているうちに、なんとなくそうだと思い込んでしまった。
実感をともなわないまま、社会的刷り込みは行われる。こういうものに敏感であると何かと疲れるし、周囲からも孤立するから、鈍感なほうが生きやすいのかもしれない。
本質を見極める眼とは、そうしたまやかしを見破る洞察力をいうのだろう。
だが、しょせん共有しあえるものではないから、こうして物することで溜飲を下げるほかない。
なんでこんな話になったかといえば、きょう坊やと新潟へ行く。
現地は雨だということだが、この時代、さしたる障害ではない。そんなことを言いたかっただけである。
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落人日記(108)


酒のかわりに飲みはじめたコーヒーが中途覚醒と頻尿の原因だった。
豆を挽いて淹れたコーヒーは酒に伍する味わいだ。だんだん濃いものが好みになってきて、このところエスプレッソのようなものをよく飲んでいた。
2時起きを第一に考えると、コーヒーも慎まねばなるまい。7時寝なので、今後は午後3時までとしよう。
あわせて緑茶もカフェインが多いので、これもほうじ茶に切り替えた。
これらを試してみたら、中途覚醒と頻尿があっさりと解決した。身体をめぐる因果関係があきらかになってきてなにやら楽しい。
posted by 雄峰 at 10:35| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落人日記(107)


すっかりフェイスブックのタイムラインを見なくなった。フェイスブックページに退去した副産物といえばこれであろう。
以前から、ちょっと見すぎてるなあと思っていたのでちょうどいい。この機会にフェイスブックから距離をとりたい。
成功したいのなら「成功者」の真似をせよという。着る物から仕草まで真似てしまえというのである。
私は司馬遼太郎や村上春樹(じつは小説はそんなに読んでないが)を尊敬している。
司馬遼太郎はすでに物故しているが、同時代人であったとしても、フェイスブックをやっているとは思えない。村上春樹も同様である。
なので、私もそれにならうことにする。とはいえ、いきなり姿を消すのは乱暴だ。徐々にフェードアウトしてゆくことにしよう。
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落人日記(106)


盛り上がりのない毎日を送りたい。刺激に乏しく、アップダウンのすくない日々を。
そのためには、大勢で集まったりしない。新しい出会いを避ける。出歩かない。見聞を広めない。
判で押したようなルーティン生活を繰り返すのだ。
世の中裏腹なものだから、こう望むといい出会いがあって、刺激的で盛り上がってしまうことがよくある。
だが、私にとっての「僥倖」は、もはや美女や美酒とのひとときではない。
「人生の大事」の実現に直結する展開のみを期待している。
おっと、6時半になろうとしている。そろそろ歯を磨いて、寝床に入るとしよう(この日記は前夜に書いているのです)。
posted by 雄峰 at 10:34| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

落人日記(105)


べつに健康オタクというわけではない。
捲土重来を期す身の上、来るべき日に向け備えているだけである。
今年10キロ減量し、大学時代の体型にした。もっとも肥満していた時期と比較すれば約20キロ減である。
断酒もなし得た。100日を超えても安定しているところをみれば、定着したといっていいだろう。
さて、目下「大事」を成すべく日々準備を進めている。来年あたりに私の仕事に光が射し始めるのではないか。
そのとき、以前のままの酒飲みであったら、調子づいて飲みまくり、いよいよ私は身体を壊し再起不能となったであろう。
人気が出てもみくちゃになってからでは手遅れである。いまのうちから、結界を張っておく必要がある。
まだ整えたいことはいくつかある。列挙すると、
・SNSから離れる(1日1度さらっと見るくらいに)。
・7時寝2時起きの定着。
・便通と頻尿の改善(お茶とコーヒーのカフェインが原因のようだ)。
こんなところかな。
結果的に健康になるだろうが、目的はいつでも討って出られるコンディションをつくりあげることにある。
活用の目処のない健康なんて、宝の持ち腐れというやつであろう。
posted by 雄峰 at 10:33| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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