2015年12月18日

男酒日記 99日目「女の習い事 男の修行」

敬愛する作家が「何事も100日やると質的に変化する」といっていた。この言葉の意味をいま実感している。
断酒100日ーーこの間得たことは、酒癖の克服どころではない。
仕事の仕方、家庭の営み方、今後の生き方から自己の確立まで、この100日は私にとってまさに革命であった。取り組んで本当によかったと思う。
古来、執着を断つことは修行の王道である。僧侶は女色、酒や肉食などを遠ざけ、挙げ句、五穀を絶って生きながら仏と化そうという豪傑まで現れた。
彼らの足元にも及びもしないが、その精神のかけらには接触できたような気がしている。
荒行というものは、周囲の者からすれば痛々しくもあり、ときにはバカバカしく見えるものである。
だが、当人にしてみれば、これほどエキサイティングな体験はなかなかない。私もかつて経験したことのない快感と満足感を得た。
だが、その感じ方に性差があるらしいことがわかってきた。
男女の超えがたさというものは、まさに「行」というものに対するスタンスの違いに凝縮されるのではないか。
自分を痛めつけてニンマリする。そんな男はたくさん知っているが、そんな女はいるだろうか。私の知るかぎり思いあたらない。
むろん例外もあろうが、この傾向が厳然と存在することを私は確信した。
習い事と修行。一見似た両者であるが、希求するものはどうやら根本的に異なるようである。

写真:こんな本が書棚にあった。おもしろかったが、なんか違うなあという違和感があった。その理由がようやくわかった。

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男酒日記 98日目「頂上で、再結成しよう」

渡部昇一先生、ホリエモン、小柴教授、神田昌典さん、佐藤優さん、加藤鷹さんーー15年で約500人の方にインタビューしてきた。彼らとの「格闘」は人生の宝だ。
収録が終えたら、観覧者も交えてスタジオの近くでパーティ。それが終えると、今度は渋谷から神楽坂に移っての二次会、三次会、四次回。我が世の春とは、あのことをいうのだろう。
ところが、リーマンショックで一変。予算が削られてからは、リクルート浪人を動員しての布陣に切り替えた。私もインタビュアーからパーソナリティに転向した。
浪人たちも持ち味を発揮し、結果的に「聴きたかった番組」を完成させることができた。
収録後は、隣のコンビニでビールを買い公園で飲んだ。みんな明日をも知れぬ浪々の身の上であったが楽しかった。
バーテンダー、ボディビルダー、フーテン、そして断酒家。
番組が終了して、再びそれぞれの道を歩み始めた。いつになるかわからないが、おたがいの道を登り、頂点をきわめよう。そして、そこで再結成しよう。

写真:キムトモ、谷口山泊、木下裕司ーーUSENビジステ・パーソナリティの面々。「探偵! ナイトスクープ」ばりの自己啓発番組をつくりたかった。それをなし得たのは彼らのおかげ。ありがとう。

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2015年12月16日

男酒日記 97日目「もうチャラ男といわせない」

遊び人がモテると勘違いして、無理して遊んでいた。高校時代のことだ。
バブルという時代背景もある。汗水たらして努力するより、要領よくやるのがかっこいいというトンマな価値観が時代を支配していた。世にチャラ男自慢がはびこってきたのは、この時期からであろう。
あれから30年――
飲んだ食った、遊んだ集まった。フェイスブックを見れば、「チャラ男文化」がすみずみまで行き渡ったことがよくわかる。
私も長らく踊らされてきた一人であるが、気づけば50歳も目前だ。
同じ歳頃、信長は安土城を築き、天下統一間近であった。孫正義は福岡ソフトバンクホークスを設立し、さらなる事業展開に意欲を見せていた。
しかるに、こんなじじいがチャラチャラしているのはどう考えてもおかしい。フェイスブック君が4年前の記事をほじくり返してきて、私を赤面させるたびにそう思う。
もはや浮かれている場合ではない。人生の大事に向けて死にものぐるいの努力を重ねているべき時期であろう。
躍動的に活動できるのは、せいぜい今後25年だ。
司馬遼太郎先生は72歳で亡くなった。26年後、私はその歳を迎える。
楽して楽しんで72歳を迎えたところで、なんの人生であろうか。にわかにそんな焦燥感に駆られてきた。
モテたくて必死だった20代、金持ちになりたくてがむしゃらだった30代。
何にせよ、人間何かを追い求めているうちが花だ。
戦後、貧困で苦しんだ世代はカネや家に執着した。
彼らの時代の犯罪は、かっぱらいに始まり保険金殺人に行きついた。犯罪は世相を反映する。
こんにち、その対象は「愛情」に移った。愛情や賞賛を求めて、人びとはさまよう。ストーカーやリベンジポルノなどはその仇花である。
では、20年後どうなるのか。犯罪は「完全燃焼」希求型になるだろう。
志がない。燃えられる対象がない。そんな不完全燃焼感を苦にして自殺したり、やけっぱち犯罪に走ったりする者が出てくるに相違ない。
世俗的な欲望はおおかた満足している私がいま飢えているのが、まさにこの完全燃焼感だ。
こんな生煮えのままでは死ねぬ。そんな思いを年々強くする。これは歳のせいだけではない。成熟社会に生きる上での宿命なのである。
もういいオヤジだ。チャラチャラしている場合じゃない。もうチャラ男といわせない。
写真:司馬遼太郎先生のお墓は清水寺の隣の大谷本廟にあります。過日の京都行きの際は、お墓参りの後、先生が少年期過ごした竹内集落、司馬遼太郎記念館を訪問。司馬遼太郎を堪能した1日でした。

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2015年12月15日

男酒日記 96日目「東京砂漠ーー寄る辺は飲み屋か消防団か」

坊やが通う幼稚園はすごい。何がすごいかといえば、我が家以外いずれも移住組なのである。
札幌、川崎、大阪、渋谷、岡山など、子供の教育のために越してきた。まさに現代の「孟母三遷」である。
一昨日、パパ友による忘年会が開かれた。こんなに楽しい宴はなかなかない。すっかりはしゃいでしまった。
その夜、余韻にひたりながら、私の「ふるさと」はここなのだと確信した。
パパ友たちは年齢、価値観、ライフスタイル、学歴、仕事、感性など何かと近いものがある。
それに居住地の近さが加わった。これぞ成熟日本の「新しい村」である。
司馬遼太郎は「故郷にくるまれて生きることが幸せである」といった。
だが、故郷を持つ現代人はどれだけいるだろうか。地域社会は崩壊し、ひとたび都市に出れば、根無し草人生への片道切符。
帰郷することも、新たな「ふるさと」を発見することもできぬまま、東京砂漠で行倒れとなりかねない。
一方、我が義弟は地元生え抜きで、これまで「村」を出たことがない。まさに帰郷にくるまれて生きている。そんな彼の活動の拠点は消防団である。
防犯や祭礼を中心とした地域活動に精を出し、集っては酒を飲み、家族ぐるみで旅行をする。
消防団は現代の若衆組なのだろうか。男たちは消防団を通じて地域の「オトナ」になっていく。
その点、都市生活には、こうした成熟化機能が欠落している。出会いはあっても、「村」を構成するに至ることはきわめて少ないだろう。
だが歳をとると、誰しも「村」を恋うようになる。そのとき、残されているのは飲み屋くらいかもしれない。
飲み屋とは、都市生活者のかりそめの故郷なのだろう。だが、そこに成熟機能は期待できない。
お客同士が地域の問題を解決するーーいま求められているのは、そんな消防団機能を持った飲み屋なのかもしれない。
写真:京都八瀬。ここに永住しようと考えたが、草花を植え替えるようにはいかなかった。ふるさとを発見するのもなかなかたいへんだ。

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男酒日記 95日目「酒気帯び原稿と荒恵比寿顔」

はやしださんとは、とある番組の懇親会で知りあった。2年ほど前のことだ。
ひと回り上の酉年、誕生日も同じ10月2日。心理学を専攻し、叙情の指向性もよく似ている。今夏、はやしださんは孫娘を、私は娘を授かった。
さらにはやしださんは、私が保有する京都のマンションの初代副理事長で、あろうことか部屋は私の真上であった。
数奇な縁の極めつけは同じ時期に断酒日記をつけ始めたことだ。いや、彼のが1週間ほど早い。私はそれに触発されたのだから。
そのはやしださんと京都で面会した。
これまでシラフで、はやしださんと会ったことがない。対面するときは、おたがいすでに出来あがっていた。
酔っ払い同士がシラフで対面すると、妙な気恥ずかしさを覚えるものだ。
それはさておき、彼との対話で得た着想がある。
それは、酒飲みはたとえアルコールを摂取してなくても、「酒気帯び」になるという論点である。
思いあたることがある。8月に書き上げた原稿がある。これを断酒後読み返してみたら、酒の臭いがプンプンしていて読めたものではなかった。まさに酒気帯び原稿なのである。
文章全般に酔いがみられ、ところによっては酩酊している。
これでは人様にお見せすることはできない。私は原稿を全面的に書き直すことにした。
繰り返し手を入れるうちにしだいに酒気が抜けてきて「シラフ原稿」に仕上がった。
これは原稿にかぎった話ではない。たとえば人相。
酔っ払っているときのご機嫌顔がふだんの表情に貼りつくのだろうか。酒飲みには、よくいえば恵比寿顔ともいうべき、ニンマリした笑みをたたえている人が多い。親父の兄弟などまさにそんな顔ばかりだ。
顔立ち同様、心も穏やかならば恵比寿さまとして愛されるのであろうが、そうではない。いきなり荒恵比寿に化けるのだから困ったものである。
このあたりの感情起伏の激しさも酔っ払い特有のもの。飲酒時の感情のありようが常態化してしまったのであろう。
こんな話を小一時間。はやしださんとの語らいは共鳴の連続だった。同病相憐れむ。イタイところに手がとどく。
せっかくこんな「病」を授かったのだから、元を取らねば損ーーこんな結論で、酔っ払い同士のシラフ対談はお開きとなった。
写真:お土産でいただいた三宅八幡の「はと餅」。子供の健康な成長を祈って、きょう家族でいただきました。

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男酒日記 94日目「飲み鉄やめたら、こうなった」

断酒してから初めてのひとり旅。いくつか用事を済ませたら、午後2時に大阪鶴橋にいた。
以前なら、それから新世界あたりで飲んで、定宿のサウナに泊まって、翌朝、青春18きっぷで関西本線から中央西線を乗り継いで東進したことだろう。
当然朝から車中で飲む。それどころか、途中上諏訪か甲府あたりで降りて、行きつけの飲み屋に行っていたはずだ。
ところがその4時間後、夕刻6時には仕事場に帰着していた。
東海道新幹線なんてめったに乗らない。乗るとしても、あえて「こだま」を選んできたが、来あわせた博多発「のぞみ」に乗車。
高尾には新横浜駅から横浜線が早いのだが、私はたいてい東京駅まで行って中央ライナーに乗っていた。すべては飲むためにである。
だが今回は、横浜線利用。つり革につかまりながら本を読んでいた。
こんなビジネスマンの出張のような旅は過去に記憶にない。
飲まないというだけで、これだけ行動がシンプルになるのか。これには自分でも驚いた。
写真:當麻寺名物の「中将餅」。目の前でさっさとこしらえてくれたよもぎ餅。日もちしないので自分用。車中で茶を飲みながら7個すべていただきました。

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男酒日記 93日目「天声人語に御用心」

朝日新聞「天声人語」には予告なく掲載される。もう10年も前になるが、私の発言が紹介された。
そこからたいへんなことになった。マスコミの取材やら講演やらで引っ張りだこ。
NHK「おはよう日本」で特集が組まれ、その煽りを受けて、翌年「第17回社会起業家賞」を受賞した。
大新聞にはひと通り載り、いろんな大学や団体から出講依頼が相次いだ。
元来サービス精神が旺盛なので、こころよく応対していたが、ストレスにも感じていたのだろう、酒量が増えた。
NPOを主催し、お年寄りから聞き書きを行う好青年ーーこれが、私に求められた人物像であった。
こんな日記を書いていることからもわかるように私はそんな人物ではない。
だが、世間はそれを許さない。聖人君子のごとく私を崇めたてまつってくれる善男善女たち。彼らのあたたかい眼差しを裏切ることは私にはできなかった。
私は虚像を演じた。自分を裏切った夜は、深酒しておのれを取り戻す。そんな日々が続いた。
5年前、もうマスコミには出ないと決意してから、ようやく私を苦しめてきた虚像が影をひそめてきた。ようやく身辺に平穏が訪れた。
電話1本かかってこない1日がいかにありがたいことか。断酒できたのも、こうした平穏無事の日々があってこそだ。

写真:こんな冊子を出してました。資料としての価値はとても高いと思います。だが、もはや話を聴きたいと思うお年寄りがほとんどいなくなったので、活動は停止しました。

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男酒日記 92日目「広告?ー京都観光より京都暮らし」

原発事故を受けて京都に疎開したのが4年前。永住しようと思い始めた矢先、いい物件が出たのでマンションを購入した。
リフォームもバッチリ、引っ越しも終えた。さあこれからというとき、坊やがよちよち歩きを始めた。
そうなると、とたんに窮屈に感じられてきた。放射能汚染も収束(?)したようでもあるので、居住わずか数ヶ月で東京に引き上げることにした。
その後はときどき別荘として使っている。友達にも貸したりしてきた。
比叡山の麓の最高の環境でとても気に入っている。老後はここと決めているが、なにぶん遠いからめったに来られない。
賃貸に出そうと決めたが、もたもたしているうちに年の暮れ。きょうは風を入れに久々にやって来た。
京都には一生に一度は住んでみていただきたい。
2週間でもいい。暮らしてみると京都どころか日本の見え方が変わってくるはずだ。
大晦日の洛中の正月支度、洛北岩倉の民家のたたずまい、上賀茂神社界隈のの夏の夜闇ーー私が好きな京都三景だ。
河原町の飲み屋に行くのもいいが、地元のスーパーや市場で食材を求め、自分で料理してみる。
大原の油揚げや豆腐、舞鶴あたりから来る魚介を肴によく飲んだものだ。
比叡山にかかる月や変幻目まぐるしい冬場の天候は、酒の味を引き立てる。
思えばここは飲むには最高の場所である。それこそ飲むためだけにここを維持してきたようなものだ。
さて名残惜しいが、ここを貸し出すことにし、昨日不動産屋に広告を頼んできた。
すぐ近くにエクシブ八瀬離宮もある折り紙つきの立地。国際会館駅、八瀬比叡山口駅が最寄り駅。冬場は全館暖房で暖かい。
セカンドハウス、親孝行にもお奨め。
この記事をご覧になっていて興味がある方がいれば、ダイレクトメールをください。不動産屋の連絡先を伝えますので。
尚、以下の動画をご覧になれば、雰囲気がよくわかるかと。
1.室内案内
https://www.youtube.com/watch?v=agiZ4SUlF8Q
2.エントランス周辺
https://www.youtube.com/watch?v=QN2i_AE8s3M
3.周辺
https://www.youtube.com/watch?v=Tx5imPyL6Gc
写真:目の前には高野川。見上げれば比叡山。あの山の向こうは大原の里。最高です!

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男酒日記 91日目「『心中の賊』を破れば」

2時に起きるべく、7時ころ寝床に就くようにしてから1週間ほど経とうとしている。
結果は惨憺たるものである。あれだけ眠気が襲って来ていた時間帯なのに、寝ようと思うと眠れない。
たとえ寝ついたとしても1時間ほどで目覚めてしまい、その後、寝床でもんどり打って、結局起き出してしまう。
寝ようとすれば眠れぬ。起きようとすれば眠くなる。こういう時つくづく思う。心とはなんと偏屈なものか。
ひょっとしたら身中には、私の理性とは別個の知性が巣食っていて、そいつが邪魔をするのかもしれない。
天邪鬼とよばれるものがそれなのだろうか。それとも潜在意識か、はたまた野生の本能というやつなのか。
何なのかわからないから、ひとまず「ヤツ」とよぼう。
ヤツの存在を特に感じるのはダイエット中だ。
急激に痩せると、ヤツが「お前、いったい何をやろうとしているんだ? 俺を殺す気か」と問いかけてきて、抵抗を始める(ヤツとの戦いに敗れるとリバウンドする)のである。
ヤツからすれば、宿主たる身体が急激にやつれてゆくことは、おのれの生き死にに直結する問題だ。心配になるのも無理もない。
一方で、ヤツは私の頭脳で考えていることは理解できないらしく、ダイエットとは何たるかはわかっていない様子である(なんだか我が子をみるようだ)。
ダイエットが厄介なのは、贅肉を落とすだけでなく、ヤツも宥めなければならないからだ。
思うに、この図式は自分と世間との関係によく似ている。
世間に何らか作用すれば、何らかの反作用が返ってくる。
変革を成し、それを安定させるには、辛抱強く働きかけなければならない。それはヤツを手なずけ、減量を成功させるのとよく似ている。
「自分を改革できない者が世の中なんて改革できるわけがない」といったのは誰だったか(コヴィー博士だったかな)。
陽明学でもいう。
「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」
世間との関係に悩んでいる諸君、まずはダイエットか断酒でもして「心中の賊」を打倒してみてはいかがだろうか。
その勢いをかって世に打って出れば、「山中の賊」など、意外とちょろく感じられるはずだから。
写真:金沢経由なら京都に行くのも楽しい。4時半に高尾を出て京都に11時着。4000円余分にかかるけど、東海道新幹線よりずっと楽しい。
これで北陸新幹線踏破。JR全線完全乗車のタイトル防衛♪

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男酒日記 90日目「これで、ご先祖様に顔向けできる」

最近ふしぎな感覚にとらわれる。それは「断酒していない」ような感じになるのである。
かといって、飲んでいる感覚があるわけでもないし、じっさい飲んでもいない。
これは解脱症状(←造語)かもしれない。本格的に酒を意識しなくなったということだろう。
断酒以来、日々の目的は「飲まない」ことであった。飲まずに1日を終えられれば「勝利」であった。
仕事もろくにせず、毎日酒対策ばかりに精を出してきた。
だが90日にもなると、さすがに慣れてきて余裕が生まれてきている。それが冒頭で書いたような心境をもたらしたのだろう。
何をもって「当たり前」とするかが文化であるという。
我が盛池家は「大酒を飲む」という文化のもと、おそらく何百年も代々飲み続けてきたのだろう。
放っておけば、この文化は坊やにも受け継がれてしまう。だが、こんな文化は私の代で食い止めねばなるまい。
酒が貴重品である時代ならともかく、ここまで手軽な品になってしまったからには、よほど注意せねば身を持ち崩すことになるからだ。
私のモットーは「子孫繁栄」である。先祖たちもそうだったのだろう。子孫に美田を残そうと奮闘努力してきたことを私は知っている。
だがこの時代、子孫に残すものはもはや田畑ではない。では、カネや株券、不動産か。いや、そういう時代も終えようとしている。
いま我々が子孫に残すべきは、よき文化ではないか。
よき1日の習慣、よき1年の行事ーーその集積こそがよき文化を織りなす。
3代先の子孫たちが感謝してくれるような文化を構築してゆきたい。これでようやくご先祖様に顔向けできるというものだ。
写真:私鉄9社スタンプラリー、5日かけてようやくコンプリート。首都圏の私鉄はつらかったなあ。

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男酒日記 89日目「ある僧侶の100日修行」

プロデュースしていたラジオ番組で、神楽坂のお坊さんにご出演いただいていたことがある。
互井観章さんという、当時40代半ば、いまの私と同じような歳のころの僧侶であった。
観章さんは「東京ボーズコレクション」を手掛けるなど、横紙破りのお坊さんとして知名度を上げていた。
いかにもこれからテレビでコメンテーターでもつとめそうな雰囲気であった。
そんなころ、いきなり100日間の荒行に出てしまった。
ごくわずかの睡眠時間でひたすら修行に打ち込む日々を送ると聞いて、私はそのわけを尋ねてみた。
すると観章さんは「いまやらないと、ダメになるからですョ」とニコニコしながらおっしゃった。
「本業」以外でも誘惑が増えてきたこの時期だからこそ、我が身を律しなければならないというのである。
当時の私はその意味がよくわからなかったが、いまならわかるような気がする。
思えば、観章さんの100日修業は、私にとっての断酒ではなかったか。
男の四十代、自覚的に生きるか漫然と過ごすか。おのれを疑うところからすべては始まるもののようである。

写真:大阪の「おかん」から長芋をいただきました。とろろ、千切り、焼き物にして日日味わっています。おかん、ありがとう!

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posted by 雄峰 at 04:27| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男酒日記 88日目「夫婦の会話を減らそう」

「夫婦の会話を増やそう」というメッセージがはびこっているが、私はこれに異を唱えたい。
むしろ夫婦の会話は減らすべきだ。なぜなら、減らすことによって阿吽の呼吸が体得できるからである。
言葉などに頼るのではなく、空気を察しあえてこその夫婦ではないか(――というものの、我が家でそれがなしえているというわけではない)。
男と女なんてものは、一見おたがい人間の形をしているが、別種の生物と考えたほうがよいかと思う。
生命体としての目的も生きるための術も異なる者同士だ。女は男の性衝動はぜったいにわかるまいし、みずからの腹で血液型も違う生命を育て産むなんてことは、男にはとうていわかるはずがない。
わかりあえないと思えばこそ、おたがい歩み寄りが生まれる。これが思いやりというものであろう。
わかりあえると思い、むやみに会話を増やしたところで、結局喧嘩になるのがオチである。
昔のオヤジが、家の中で寡黙だったのは、こうした現実を踏まえてのことであろう。
彼らはもともと無口なのではなく、わかりあえぬ世界をそれぞれ抱える者同士の語らいの不毛さを知っていたのではないか。
よくいえば、言語などで支配しようとせずに、相手の存在を尊重していたということになる。
さて、この日記を書くようになってから俄然口数が減った。元来多弁な私であるが、読者に語りかけることで溜飲が下がったのであろう。
家内をはじめ家族との語らい、というか承認を得たいという欲が失せた。
これが結果として、一家和楽をもたらした。
会話に傾斜した人間関係は、陳腐な求愛行動に他ならない。沈黙に土台を置いた成熟した人間関係に回帰すべきではなかろうか。

写真:『悪妻の日本史』。どうやら妻というものは「良妻ー悪妻」というX軸と「幸運妻ー不運妻」というY軸で区分できそうである。
「良妻ー幸運妻」がベストであることはいうまでもないが、それに次ぐのは「悪妻ー幸運妻」のようである。(^^;;

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男酒日記 87日目「ナマポとタクシー」

飲んだあと、混雑した通勤電車に揺られるのは興醒めだ。だからよく中央ライナーに乗ったものだ。
窓辺に缶ビールやつまみを並べて、高尾まで小一時間の二次会。その後、自宅で三次会。そして翌朝、二日酔いで起き上がれない…
断酒してからは、混雑する通勤電車で本を読みながら帰宅し、それからジョギングするようになった。1日が3倍になったような気分だ。
さて、生活保護の審査官をやっている友人の話で印象深かったのが「受給者はタクシーをよく使う」というもの。
生活保護を受けていながら、タクシー利用はないだろう、とたいていの勤労者は思うことだろう。私も同感だ。
だが、一部の受給者は筋金入りの面倒くさがりで、また浪費癖が激しい。いくら説諭しても馬耳東風。行動が改まることはないと彼は嘆く。
だが思えば、飲んで中央ライナーで帰宅する我々もそれと変わらない。
飲んだら、せめて通勤電車で帰ろう。分際をわきまえて行動しないと帳尻が合わなくなる。中央ライナーは疲れた勤労者に譲ろう。
おもしろいもので、頑張れば頑張るほどるほど頑張れるようになり、怠惰になればなるほど怠惰になるものである。
世にいう二極化とは、帳尻を合わせようとするバランス派とそんなの無視派かたち作られているように思える。

写真:上野原名物の酒饅頭。最近これがうまくてうまくて。坊やと1個ずつ食べる前に3個(あんこ、みそ、とと=マスの切り身)をぺろり。

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男酒日記 86日目「101日目以降について目下思案中」

以前公言したとおり、この日記はあと2週間ほどでいったん終える。
その後どうするかについて、このところ考えている。
怖れていることは、100日を境に酒癖が復活することだ。正直なところ、100日を一つの区切りとして考えている「自分」がいるので油断ならない。
大願成就するまでは断酒を続ける考えに変わりはないので、100日を淡々と通過できるように今から考えておかねばなるまい。
可能性が高いのは、「耳学問の雄峰塾」というフェイスブックページを開設しているので、そこに記事をアップし、それにコメントをつけてシェアするという方法である。
興味のある方は、以下のページに「いいね」して読者になっておいていただきたい。
https://www.facebook.com/seikejuku/
せっかくなので、こちらのフェイスブックへの投稿も再定義しようと思う。
司馬先生に倣って、自己肥大、自己愛、自己顕示がムンムンしているような記事はアップするまいと決意した。
となると、どんな記事ならそれらのフィルターをくぐり抜けるのだろうか。
なるほど!
びっくり!
おもしろい!
ーーこんな切り口かな、とも思うがどうなのだろうか。
そんな記事、ほとんどないような気もする。だが、それも一つの到達点というものであろう。

写真:郷土資料館での「八王子と鉄道」展は日曜日まで。幼稚園が終えてから、坊やと見に行こうかな。

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2015年12月02日

男酒日記 84日目「幹事をやめたら、こうなった」


忘年会の予定が一つも入っていない。嫌われ者の私は、元々声がかかるほうではないが、例年にない事態である。
だが、原因はわかっている。それは「私が主催しない」からである。
忘年会にかぎらず酒席は、ほとんど私が主催してきた。
酒席にかぎらない。仕事でも家庭でも、たいていのことは私が主導的な役割をつとめてきた。私は「幹事屋」なのである。
幹事に求められるのは行動力、意欲、段取り力、調整力など、ビジネスに生かせるものばかりだ。
私の幹事力は、たしかに仕事には生かされてきた。それによって得たものは少なくない。
だが、これも諸刃の剣。その幹事力は家庭、地域、知り合い関係といったゲマインシャフトにおいては、ともすればあだとなりかねない。
へたに仕切ったりすれば、矢面にさらされ、批判や反発を受けることになる。
たとえ、みんなの役に立とうと頑張ったとしても、それが報われることは少ない。
義民の末路は石をもって追われるものだ。
そう考えると、世の「受け身家」たちは賢明であるといえる。割りに合わぬことに手を染めぬだけでなく、それが周囲との調和につながることを知っているのであろう。
私はこれまで受け身家をばかにしてきたが、じつは彼らこそが平和の体現者なのかとすら思えてくる。
だが、今さら彼らのような生き方は選択できまい。それは血液型を変えろというような話だ。
「幹事」として生まれついてしまったからには、そのなかで賢明度を向上させてゆくほかない。
私が愚かだったのは、「自分の領域」に絞り込めていなかったことである。私は守備範囲外でも「幹事」をつとめてしまっていたのである。
私はしばしば「余事に無用な関心を持つな」と言ってきたが、自分がまさに「余事の幹事」になっていたのである。
本当に必要な場を見極めて、さらに必要に応じて幹事でも世話役でもつとめればいい。
私はこのメリハリがわからなかったのである。
長らく家中で孤立してきた理由がよくわかった。これも断酒のたまものである。

写真:御山人の石。入荷分は完売。小さく始めて大きく育てるのがビジネスの王道ですね。

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男酒日記 83日目「2時起床で、気魄がやしなわれる」


よろめきながらも5時起きが定着してきた。
5時に起きようとすると、7時起きは楽勝だ。つい二度寝しても、6時半だったりする。
となると、5時起きを楽勝にするには、3時起きを心がければよいということになる。
北辰一刀流の創始者千葉周作は2時に起き抜け刀を振るった。
身体をいじめぬくことで、胆力や気魄がやしなわれると考えてのことだ。私もかくありたい。
せっかくなら、周作にあやかって2時起きにしてみようか。
2時に起きるためには、7時ころ寝なければならない。
ふつうに働いていれば、そんな早寝はできないのだが、幸いにして私はできる境遇にある。
また、2日に1度程度寝かしつけている坊やはまさに7時寝である。
極度の眠気とたたかいながら寝つかせ、寝息を確認してからプールに行っている。
だったら、いっそのこと坊やと寝てしまえばいいのではないか。
2時にプールは無理だが、ジョギングをこの時間に持ってくればいい。
以前、中庸主義を宣言しておきながら、もたもや極端に走ろうとしているが、中庸以前に断酒の安定だ。
早起きにしても、そもそもは断酒から始まった。早起きしていようと、酒びたりでは意味がない。
夜更かしと酒量は完全に比例する。いまここで7時寝にしてしまえば、断酒の援護射撃にもなるというものだ。

写真:漫画はあまり読まないが、水木しげるとつげ義春はけっこう読む。彼らは師弟関係にもあり、画風も近い。世間を妖怪の巷と見ているあたりが性に合うのかもしれない。合掌。

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男酒日記 82日目「上流はグレーな解決」


大村益次郎は物干し台に上がり、毎晩、豆腐一丁と酒二合を飲んだ。それだけでピタリと杯を伏せたという。
この飲み方に長らく憧れていたが、ついになしえなかった。
断酒はできたのに、節酒はできない。一般的にはそういうものらしい。微妙なバランスをとるより、極端に走るほうが容易なのである。
となると、昨今の「白黒つけよう」という風潮は安易に流れているということに他ならない。
離婚で血みどろの戦いを演じるのはたいてい「下流」であって、「上流」はもっと微妙な対処をするようである。
知り合いの社長は奥さんがビジネスパートナーで、その会社の専務を務めている。
ところが離婚した。だが、役職や仕事内容に変わりはなく、会社の関係はこれまでと変わらないという。
離婚したからといって専務も退任では、顧客や従業員がたいへんな迷惑を被る。
かくも公的な、すなわち社会的地位の高い人びとは白黒つけないグレーな解決策を見出すのである。
喧嘩に持ち込めば、多大なカネ、時間、労力を消耗する。「金持ち喧嘩せず」というのは、こういう叡智のことをいうのではあるまいか。

写真:歩き神主高橋御山人の土産。亀嵩駅というだけで4、5時間は語らえる。「人の幸せは、よき話し相手に恵まれること」と司馬先生はおっしゃっていたが、この歳になってそれを痛感する。

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男酒日記 81日目「風邪で、身体を鍛えよう」


風邪もひかないと言ったそばから、風邪をひいてしまった。
気温の高下も身体に響いたのであろうが、それ以上に早起き習慣の導入が身体に障ったかと思われる。
こんなとき以前なら、「風邪だ。たいへんだ。日本酒を飲まなきゃ!」なんてはしゃいでいたことだろう。
「真澄」や「菊水」などのこってりした日本酒が五臓六腑にしみこんで、心身を癒してくれたはずだ。
だが、いまや禁じ手。
酒のつぎに気晴らしになるジョギングもできない。
鼻がつまるので、酒の代用たるコーヒーや茶も味わえない。
断酒家にとっての風邪っぴきとは、なかなかひもじいものだ。
野口晴哉は、風邪とは身体の修正作用であり、上手に「経過」させることによって、より強い身体を獲得できるという。
野口氏のような「プロ」は40分くらいで風邪を経過させることができるという。
むろん私はそんな芸当はできるはずもない。珍しく外での用事も重なり、10年以上ぶりに風邪薬を飲んだ。
ふだん飲まないせいだろうか。ピタッと症状が収まった。

写真:野口晴哉『整体入門』。一種のトンデモ本ですが、風邪の認識は一変するはずです。

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男酒日記 80日目「酒虫を追い出したら、健康も富も失ったという噺」


芥川龍之介の作品に「酒虫」という短編があると知り、この機会に読んでみた。
大酒飲みの体内には酒虫が巣食っていて、そいつが酒を飲んでいる。
ある大酒飲みが、道士の導きにより、体内の酒虫をおびき出し取り出すことに成功した。
ところがそれ以来、その大酒飲みは身体を壊しただけではなく、家産まで失ってしまった。
ーーこんな話である。
酒虫と幸不幸の因果関係について、芥川は三つの切り口で解釈しようとしている。
その1 酒虫は元来福の神であるにもかかわらず、それを取り除いてしまったという「酒虫福の神説」。
その2 酒虫は害でしかなく、それまでがたまたま強運であったという「酒虫厄病神説」。
その3 大酒飲みは酒虫そのものであり、それを追い出せば宿主も滅びるという「酒虫大酒飲み一体説」。
さて、私は大事な点に一つ触れずにいた。
酒虫が宿る大酒飲みはちっとも酔わないということだ。
となると、私には酒虫はいないようだ。私は大酔を発してしまうからである。
さて、正解はいずれの説であろうか?
私見を述べれば、この逸話ひとつで因果関係を語るのは土台無理というもの。解答欄には何も書けない。
ちなみに芥川龍之介も「それは自分にもわからない」として、この掌編を終えている。
酒飲みたちはむろん「1」であろう。かくして、酒飲みたちは、今夜も飲むための大義名分を得るのである。

写真:つげ義春「魚石」。磨けば魚影が浮かび上がるという。

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男酒日記 79日目「かいがいしい妻の影に」


アルコール依存症患者の妻は、とてもかいがいしいーー『人はなぜ酒を飲むのか』を読んで印象的だったのは、この箇所である。
私の知る依存症患者の奥さんもまさにそういうタイプである。
ろくに働かない夫の代わりに仕事に出て、一家を支えている。好きな酒くらい飲ませてあげようと家計を切り盛りする。
そんな姿は、私からすれば甘やかしすぎなのではないかと思うと同時に、そんな奥さんを持つ旦那さんを羨ましく思う。
だが、これが典型的な共依存というやつなのであろう。
面倒をみる、みられるという関係に過度に依存した関係は、一種の嗜癖的快楽を生むという。
いくら苦難があろうと、妻は尽くすことに生きがいを感じ、そこに自分の存在意義を見出しているのであろう。
ともにアルコール依存症という敵と戦うことで手を携えている。こんな連携であっても、夫婦の絆というものは確認しあえるのである。
その点、私はアルコール依存症失格者のようだ。
家内はかいがいしい人ではない。それどころか、びっくりするほど無関心である。
武家の内儀は、夫に過度な関心を持たぬよう戒めているとはいうが、そういうわけでもない。
もっとも私としては、へんに尽くされて、その分束縛されるより、無関心でいてくれたほうが助かる。
いくぶん寂しさはあるが、これも時間のなかで慣れるものだ。
こういう関係性を土台としていると、アルコール依存症になりようがない。なったところで、ひとり野たれ死ぬだけだからだ。
じっさいアルコール依存症どころか風邪すらひかない。頼るものがないと、気持ちに張りができて、元気溌剌になれるものだ。そう苦笑せざるを得ない。
私が断酒したのは、そんな先々の危機に対する野生的回避行動だったのかもしれない。

写真:『人はなぜ酒を飲むのか』。著者の生い立ちにおける苦悶や患者たちとの苦闘が生々しい。とてもいい本でした。ー 場所: 拓殖大学

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男酒日記 78日目「身元特定。お里も知れた」


ツイッターで暴言を吐いていた男が、地方紙のお偉いさんだと暴かれた。
その内容にはさほど興味がないが、暴言者の「アルコールを飲んでいたので」という弁明は注目に値する。
彼の言い分を私なりに翻訳すれば、以下のようになる。
「アルコールを飲んでいたので、つい暴言を吐いてしまいました。シラフのときの私はこんなことをするような人ではありません。すべてはアルコールが私に為さしめた悪行なのです。ごめんなさい」
これに対して、「アルコールに責任転嫁するな。飲んだのはお前じゃないか!」などと糾弾するつもりはない。
興味深いのは、まがりなりにも報道機関に長年身を置いてきた男(52歳の報道部長ということだ)がこんな言い訳をしたという事実についてである。
彼らの間では、じつはアルコールは人間を狂わせるという共通認識があるのではないか。
アルコールは人を狂わせる。そして、そのために仕出かしたことは問われない。
この一件は、彼らのモラルをはからずも露呈してしまった。
経緯も知れば知るほど、業界の「恥部」が見て取れる。まあ、どうでもいい話ではあるが。

写真:蕎麦打ちに続いて近隣の温泉で打開策を模索。自分を思い通りに動かすということはたいへんなことですね。ー 場所: 藤野やまなみ温泉

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男酒日記 77日目「光陰矢の如しという幸せ」


悪くいえば単調、よくいえばリズムにのっている日々は、まさに光陰の如く過ぎ去ってゆく。
断酒して以来、月日の過ぎ行くのが早いこと早いこと。
一方、目新しいことが多いと、時間の経過は遅くなる。
見知らぬ地への「行き」は「帰り」より、ずいぶん時間がかかるように思えるものだ。
これまでの人生でもっとも時間の流れが遅かったのは、選挙に出たときのことである。
表明した途端、もみくちゃになって、上下左右もわからなくなるような日々が続いた。
それはわずか数日であったのだが、あれほど時間の経過が遅く感じられた経験はほかにない。
よく事故を起こすとスローモーションになるというが、あれも同じ脳内の作用なのだろう。
刺激が強くなればなるほど、脳はゆっくり解釈しようとするものなのであろうか。
こうしたことからも、断酒以降の日々の意味というものがわかってくる。
ひとことでいえば「刺激がない」のである。
刺激がないといえば、「お気の毒」と返ってくるかもしれないが、それはステレオタイプな反応だ。
もはや、刺激に身悶えするような歳ではない。
単調な日々の繰り返しのなか、着実に積み重ねてゆく時期である。
月日が経つのが早く感じられれば感じられることは、喜ぶべきことなのである。

写真:高尾模型は、私も少年時代よく通った。ガンプラでビルが建ったそうだ。
坊やは「国鉄」好き。当時の車両のがあきらかにセンスがいいからね。

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男酒日記 76日目「酒の代わりに蕎麦を打つ」


こだわりはかっこ悪いと忌避してきたが、気づいてみれば、コーヒーは豆から淹れ、蕎麦はみずから打っている。
この手の作業を行うのは、決まって仕事が行き詰まったときである。
そんなとき、ジョリジョリ豆を挽いたり、蕎麦粉をこね回したりし始めるのである。
いま2年越しで取り組んできた原稿が佳境を迎え、ほとんどの時間をそれに割いている。
野放途に書きすぎて、だいぶ削らなければならない。
自己愛が強いせいだろう。ひとたび物した原稿を削るのがつらいのなんの。なかなか先に進まない。
そんなとき、以前なら酒の力をかりたはずだ。酒の勢いで、目の前の壁を打通できる。そんなふうに考えたはずだが、いまや禁じ手だ。
だいいちそんな手立てでうまくいった試しはじつは少ない。せいぜい酔っ払って寝てしまうのがオチだ。
仕事が膠着したときの気分転換は人それぞれで、村上龍はドライブすると、よく書けるといっていた。
司馬遼太郎は散歩がてら、近所の喫茶店でコーヒーを飲んだ。うどん屋にもよく行った。
本来なら、それくらいでリフレッシュすればいいのだろうが、私はついコーヒー豆を挽いたり、蕎麦粉を捏ねたりしてしまう。
冗長なところが多いのは、文章だけの話ではないようだ。
写真:打ち終えたころ、ちょうど家内が娘とやってきたのでふるまったら喜んでいた。やがて二人は、息子と父母の待つ家に帰り、私だけが仕事場に取り残された。

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男酒日記 75日目「親の顔が見たいよ」


バブル前夜、中曽根首相が「もっと外国製品を買いましょう」「もっと遊びましょう」といったメッセージを発していた。
高校生の私はそれを見て、強い違和感を覚えたのをよく覚えている。
まもなく日本はバブル経済突入。バブル経済というより、バブル社会といったほうが適切かもしれない。
じっさい、あの時期から日本人は変質していった。
フェイスブックを昔の日本人が見たら、なんと言うだろうか。
飲んだ食った遊んだと大っぴらにふれまわり、それを「いいね」と賞賛する。
その最たるものは以前の私で、数年前の記事が出現するたびに苦笑いしている。
美酒美食、大酒大食。鉄道旅行。どれもこれも遊びの記事ばかりだからだ。
これが40年前だったら、「この恥さらし。親の顔が見たいよ」などとコメントされていたことだろう。
早いもので、バブル時代からもう30年になる。
経済バブルは弾けたが、当時蒔かれた精神性バブルの種子は我々の脳内で発芽して、いまや百花繚乱。脳内お花畑の如き様相を呈している。
経済にはいくつも指標があるからわかりやすいが、精神性の変質はわかりにくい。
気づけば、すっかり変質していたという点では、アルコール依存症への道筋とよく似ている。
これだけ手軽に安く酒が手に入る時代だ。酒の位置づけについては、一度いにしえの人びとに学んでみてはどうだろうか。
彼らにとっての酒はもっと崇高で、それでいて悦びに満ちたものであったはずた。
そんな本来の「酒」を提供してくれる飲み屋はむしろこれからが重宝がられる時代を迎えるはずだ。
そのためには、まずは酒を開けっぴろげに飲むのをやめてはどうだろうか。
それだけでも、バブルで火照った脳はいくぶん冷めるはずた。酒の味わいも、また格別なものになるのではないだろうか。

写真:日田天領水。便通がよくなるということなので試してみることにしました。これにともないスーパーVAAMは御役御免。

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断酒日記 74日目「男酒日記」


明日から「男酒日記」へと看板を掛けかえることにした。
断酒は続けるが、「断酒」より「男酒」として語るほうが実態に見合うと考えたからである。
何度もいうが、断酒しているとはいえ酒を否定しているわけではない。
ただ、私の場合は、気づいたら酒ではなく「アルコール」を飲んでいたのである。
諸兄もあるいは、山中で出会った狐が化けた美女から振る舞われた「美酒」のように、馬のションベンを飲んでいるのかもしれない。
昨今の酒をめぐる状況はこれによく似ていると思えてならない。
一度リセットして、酒を捉えなおし、どうつきあうのかを考えてみる機会は重要であると確信する。
かくいうが、当初はこの日記で、断酒をめぐる七転八倒を書くつもりであった。ところがそれはいとも簡単に成し遂げられた。
それどころか、断酒を続けているうちに、自分、社会、時代というものについて、これまでになかった知見と私見を得るに至った。
となれば、「断酒日記」ではいくらか語りにくい。
そこでこの機会に「男酒日記」とあらためて、日々思うところを綴ってゆくことにしようと考えたのである。
皆様、今後とも、よろしくお願い申し上げます。

写真:高田駅前、郵便ポストの上に設えられた上杉謙信像。男と酒というと、まずこの英雄が思い浮かぶ。

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断酒日記 73日目「つまみ食いでは、力にならない」


高橋御山人師は現在、全市町村踏破に挑んでいる。10年計画だ。
小柳 次郎冠者は「日本百名山」踏破へのチャレンジを表明。こちらは8年計画である。
私は「親子2代でJR全線完全乗車」に挑んでいる。何年かかることか。子々孫々、受け継いでゆきたい。
我々はそれぞれエンジニア、経営者などの職業があるが、それらはしょせん生業を語る上での肩書にすぎない。我々の本職は「完全制覇家」なのである。
ひとたび完全制覇を志したとたん、これまで娯楽でやってきたことが、いきなり苦行と化す。
好きな路線、好きな山、好きな地域だけの「つまみ食い」ができなくなるからだ。
私はいま北陸新幹線の上越妙高〜金沢間を未乗区間として残している。近々出向くであろうが、正直なところ面倒くさい。
だが、そんなことは言ってられない。「選り好み」という言葉は、完全制覇家の辞書にはないからだ。
じっさい完全制覇の醍醐味とは、気乗りしないことを行うときに発揮されることがじつに多い。
人間の心理とはおもしろいもので、気乗りしないことをやるとき、「元」を取ろうとするものだ。
気乗りしない上に、じっさいおもしろくなかったら目もあてられない。だから、「おもしろさを見つけてやろう」という心理が働く。
期待しなかった映画や本のほうが印象に残るのもこうした心理作用のたまものといえる。
一方、完全制覇経験を積むと、仕事能力は俄然高まる。
なぜなら、気乗りしないことでも、淡々と仕上げる力が身につくからである。さらに、妙味を見い出す眼力磨かれるので鬼に金棒である。
「つまみ食い」ではこうした力は身につかない。むしろ選り好みが強くなって、仕事能力は低落することだろう。
やるなら完全制覇。これが燃焼感ある人生を送るための要諦なのである。

写真:高橋御山人の著作。大阪の魔女の店、信州鬼無里の蕎麦屋、八王子のコワーキングスペース「エイトビート」のみで入手可能の稀覯本です。

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断酒日記 72日目「使命なくば、酒につけ入られる」


持つべきものは反面教師である。私にとって、小柳 次郎冠者はかけがいのない反面教師である。とにかく酒癖がよく似ている。
反面教師から得られることは、大きく分けて「優越感効果」と「自己客観視効果」のふたつだ。
前者はわかりやすい。ライバルを出し抜くのは気持ちのいいものだ。優越感は醜悪な感情であるが、露骨に出さずに、自分のエネルギーにしてしまう分には差し支えあるまい。
さて、自己客観視効果。これは相手の言動のなかに、「おのれ」を見出すという技法である。
次郎冠者を観察していてると、多くの学びを得てきたが、昨日になって初めて気づいたことがある。
それは、「暇人は酒を飲む」ということだ。
次郎冠者はIT企業とコワーキングスペースを経営している。だが、元来経営者体質ではないので事業意欲に乏しい。私もビジネスにはそれほど燃えられないたちだ。
そういう者が会社経営をやるとどうなるのか。
適度に稼げればそこまで。あとは余暇余禄を趣味や飲み食いに費消してしまうのである。
そういう観点で振り返ってみると、この秋断酒したのは暇でなくなったからではないのか。
夏に二人目の子供が生まれた。これにともない、坊やを幼稚園送迎や休みの日に遊びに連れ出すことが増えた。私は知らず知らずの間に忙しくなっていたのである。
プロフェッショナルとは、気が向く向かないに関係なく、優先順位に沿って淡々と作業をこなせる者をいう。
プロの生活者を自負する私は、無意識のうちに、一日の限られた時間を優先順位順に配分していたのであろう。
すると、どうやら酒にまわす時間がない。そんな計算を潜在意識下で行っていたようなのである。
さて、周囲を見回してみると、次郎冠者に限らず、酒飲みは暇人ばかりだ。
だが、暇人だからとバカにはできない。なぜなら、暇人とは、意欲に乏しい有能者であることが多いからである。
自分の望む生活を要領よくさっさと整えてしまう。そんな者たちが暇人の実態なのである。
だが、暇人よ、その暇を酒にだけ使うのはもったいなくないか。
いま酒に投下しているカネと時間と労力を、何か別のものに賭けてみてはどうだろうか。
次郎冠者は「百名山」登山に賭けることにした。この瞬間、彼は登山家になった。
仕事はそれを支えるための手立てでしかなくなった。
そう考えると、成熟社会というのは怖い。簡単に生活を成立させることができる分、余暇余禄の捧げ所を誤りかねないからだ。
「大事」を持たねば、アルコールにつけ入られてしまう。
成熟社会の成功者とは、大事に対して日々燃焼できる者をいうのであろう。

写真:ノンアルビール「龍馬」はうまい! そのレモンビールが出たので箱買い。次郎冠者と試飲。レモンチューハイの代用にはなるかなって感じでした。

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断酒日記 71日目「自分との約束を守れば、自信につながる」


現在20キロのダイエットに挑んでいる小柳 次郎冠者のフェイスブック記事に、以下のようにコメントした。
その場の思いつきにしては、なかなか秀逸な定義なので、以下に転載する。
✳︎✳︎✳︎
自信とは、自分を信頼できることです。
他人のように、自分を突き放したとき、「こいつ、信頼できるよ」と他者に言えるようなら、自信を持っているといえます。
そんな人物になるには、自分と交わした約束を守るほかありません。
私は断酒を自分と約束し、それを遂行することで、自己信頼度=自信が上がりました。
✳︎✳︎✳︎
自信というと、ふつうは「根拠のない」が枕詞につく。
たいていは強がりであるか、そうでなくとも、せいぜい昔取った杵柄(たとえば、学歴、職歴、表彰といった過去の栄光)にあぐらをかく愚かな姿にすぎない。
そんな自己肥大や自惚れが真の自信ではないことは、じつは当人がいちばんよく知っている。
ことさら、賞賛(いいね)を求めるのは、その表れといってよいだろう。
さて、私たちは他人を信頼するとき、何を根拠にするだろうか。
学歴、年収、家柄、知名度あるいは同郷。だが、こんなものを拠り所にしていたら、即座に裏切られ欺され、人生は空転することになる。
信頼とは、そんなものでは醸成されない。なぜなら、信頼とは守られた約束の蓄積であるからだ。
これは自信、すなわち自分に対する信頼についても同様である。
自信を保持しつづけるには、自分と交わした約束を守りつづけるほかない。
だから、そもそも自分と約束を交わさない人、つまり何ひとつ発奮しない人は自信を持つことはできない。
さりとて、節酒、運動習慣、早起きなど、たくさん約束を交わしても、それが守られなければ、かえって自信を喪失するだけだ。
となると、自信創出には、実現可能な取り組みを適度に設定する能力が必要ということになる。
そのためには、現在の力量を把握し、これからどれくらいの境地まで到達し得るかを客観的に捉えることが第一歩となる。
だが、これが難しい。
自分の実情や「限界」など、誰だって直視したくないし、技術的にも難易度が高いからだ。
本来であれば、窮地に立たされたときがチャンスなのだ。おのれを直視せざるを得なくなるからだ。
だが、そこで酒に手を伸ばしてしまっては台無しになる。
つかの間、手ごろに自分を欺いたところで、何も解決しないからだ。
しかも、それが慢性的になると、飲んでいなくとも酔っ払い状態となり、ますます自己を冷静に観ることはできなくなる。
ひとたびこうなると、社会との乖離は開くばかりだ。
それを防ぐには、一定期間、しらふで過ごすのがよいように思える。
内観とは、静坐して自己を発見する心理療法である。
私は体験したことがないが、あるいは断酒はそれに近い行なのかもしれない。
自分を等身大に捉えられるだけでなく、自信を獲得する機会にもなるからだ。

写真:昨日、次郎冠者と面会。次郎冠者、「百名山完全制覇ダイエット」として取り組むことになりました。8年がかりの計画、楽しくなりますなあ。

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断酒日記 70日目「4時始業 10時終業ーー村上春樹の1日」


断酒70日目を迎えた。酒については、もはや心配はない。飲まない日常は確立できた。
ただ、「100日」を意識している自分がいる。この日を境によろけかねないので、警戒を強めてゆかねばなるまい。
さて、今回は早起きの件。
幸か不幸か、何時に寝ようと起きようと、とやかく言われぬ身の上である。
朝型夜型という体質があるとするなら、私はまちがいなく夜型であろうが、これも思い込みかもしれない。
酒なしには生きられないと思っていたが、なくても差し支えないことが判明したように。
これまで何度も朝型生活にチャレンジしてきた。
つい先ごろも、友人の冨田さんと早起き実践会を企画した。朝5時に、チャットで起床確認するのである。
ところが、彼女だけすんなり早起き習慣が定着したのに対し、私は軌道に乗せることができないまま迷走をつづけている。
せっかく断酒が定着したので、この機会に生活習慣全般を底上げしてしまいたいところだ。
耽溺案件を率先して断ち、除去することで、その空いたスペースに幸運が滑り込んでくる。この法則は経験的に知っている。
夜更かしを贄として神に捧げることで、御利益を得る。そういう魂胆だ。
生活習慣の確立には、フェイスブックが有効であることを断酒で学んだ。無料で衆人環視機能を活用できる。こんなありがたいことはない。
早起き定着に向けて、毎朝5時半までに、断酒日記をアップすることにしよう。
記事へのリアクションを受けているうちに目が覚めてくるはずだ。

村上春樹のすごさは、その小説もさることながら、生産生活の確立に向けての気魄と知見にある。ちなみにイチローも似たタイプであろう。
彼らに共通しているのは、自分を客体化して、いかに機能させるかにおいて冷静かつ合理的に対処しようというところである。
私もかくありたいと願って、彼らから学びを得ている。

村上春樹は朝4時に起きて原稿に取り組む。私は、この1時間遅れパターンを定着させたい。
以下は、彼のインタビューの抜粋。諸兄の参考になるかもしれない。

「だいたい朝の四時ごろ起きるんだけど、三時に起きたり二時半におきたりしても、そのまま仕事をしてしまう」
「目覚まし時計なんて使ったことはありません。目が覚めるとその時点で全開状態になっているから、すぐに仕事にとりかかる。
「コーヒーを温めて、何か小さいもの、スコーンを半分とか、クロワッサンとか、そういうものを食べて、コンピュータの前に座って、即仕事に入る。うだうだはなし。うだうだしていると切りがないから、即入っちゃう」
「習慣はすごく大事です。とにかく即入る。小説を書いているときはまず音楽を聴きませんね。日によって違うけれども、だいだい五、六時間、九時か十時ころまで仕事します」

写真:スタバなんてめったに行かないけど、村上春樹生活を導入するために行ってみました。スコーンて、こういうものなのね。甘食のが好みだなあ。

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posted by 雄峰 at 11:28| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 69日目「さよならだけが人生、か」


寝台列車、老朽車両、場末の居酒屋ーー私の愛するものたちがつぎつぎと姿を消してゆく。
最高の至福といえば、寝台列車の個室を真っ暗にして、窓辺に酒と肴を並べ、流れゆく車窓を眺めながら飲むことであった。
原発事故のあと、京都に住んでいて、そこから新潟にちょくちょく通っていた。
その行き来に使っていた急行「きたぐに」の車窓は生涯忘れぬであろう。廃止されてもう3年になる。早いものだ。
私が寝台列車に乗りまくっていた頃は今ほど加熱していなかったから、廃止日にあわせて「おくり鉄」ができた。
あかつき、はやぶさ 富士、彗星、出雲、まりも、利尻。思い出すだけでぞくぞくしてくる。
だが、寝台特急北陸を最後にチケット確保が困難を極め、最近はすっかり足が遠のいた。
来春、北海道新幹線が開業すれば、北海道行きの寝台列車も全廃になる。
飛行機嫌いの私は、これまで一度しか渡道に空路を利用したことがない。これからは、新潟港からフェリーで行くことになろう。
さて、断酒2ヶ月が経過した。持病の脂肪肝はどうなったであろうか。
あのまま飲み続けていたら、酒とも永別を余儀なくされたはずだ。
観酒ーー井伏鱒二の訳で知られる「観酒」にはさまざまな解釈が成り立つが、私は再会を期した惜別説を採りたい。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみと注がせておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生さ

だが、寺山修司はこれを次のようにもじった。

さよならだけが人生ならば
人生なんていりません

私の「鉄道」は失われてしまったが、坊やを通じて「鉄道」をふたたび獲得しつつある。
同様に酒も、彼を通じてふたたび獲得すればよい。さよならだけが人生でもあるまい。

写真:畑の柚子。もいで絞ってソーダ水に。昨年は、チューハイのグレードアップに使っていたなあ。

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posted by 雄峰 at 11:27| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 68日目「平時にひとり、戦慄する男」


ラジオでもそうだった。ファンのコア層は、どういうわけかマッチョ男なのである。
プロレス、武道、ボディビルをやっている人の割合があきらかに高い。
そういえば、拓殖大学の学生などその典型だ。教室には、屈強な学生諸君がわんさといる。私のメッセージが彼らに好評であるのも、通底しているように思う。
そして断酒日記。ここまで続くと、おつきあい組が抜けて行って、しだいに読者層が浮かびあがってきた。そこには、同様の顔ぶれが並んでいる。
一方、私のメッセージは女受けが悪い。悪いというより、そもそも対象にしていないといったほうが正確かもしれない。
ラジオでも講義でも文章でも、私は「男」を相手に語りかけてきた。
男が男として威風堂々生きてゆけるような社会にする。なぜかわからないが、そんな使命感を持っている。
司馬遼太郎はみずからを「男性専科の作家」といっていたが、私も同様である(念のためにいっておくが、ホモではない)。
さて、天下泰平の武士が昼行燈と蔑まれたように、男の魂は平時には溌剌としないものだ。
平和はたいへんけっこうなことだが、男の活躍の場が得にくいのが現実だ。
だが世の中には、平和のなか、ひとり戦慄する男もいる。
勝手に世を憂いて、割腹自殺を遂げた三島由紀夫はその典型だろう。
私もそんな体質らしく、「終末」に備え、方舟を準備するようなことばかりやってきた。ひとりで勝手に「戦時体制」を組んできたのである。
だから、周囲は当惑し迷惑すること甚だしい。
だが、そういうバイブレーションに共鳴する人は一定数いるようで、それがどうやらマッチョ男たちなのである。
私は断酒を、剣豪にとっての武者修行であり、修験者にとっての荒行として位置づけている。
男相手には、こうしたわけのわからぬ奮励が響きうる。だが、女にはそれがわかりにくいように思う。
たいへんな苦難に耐えていると解釈され、同情されようものなら、苦笑いするほかない。
修行者とは歯を食いしばって堪えしのんでいるわけではない。むしろ、ニヤニヤしながら、日々の成長を噛み締めているのである。
ストイシズム。この感性のちがいこそ、男女の差異の最たるものではなかろうか。
むろん、遠巻きに応援してくれている女性たちの存在にも気づいている。
彼女らは一様に大人の女性である。子供、それも男子を育て上げた淑女が目立つ。
彼女らの余裕と慈愛に満ちた眼差しは、荒行をこなしてゆく上で、時として支えになる。
平和日本で、ひとりいきり立って生きる姿は、我ながら滑稽ではあるが、そういう気質に生まれたのだからしかたがない。ひとり、乱世を生き抜くとしよう。
写真:つげ義春「石を売る」。彼の漫画の登場人物は勝手に「戦時」を生きている。畏友御山人もついに石を売り始めた。

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断酒日記 67日目「人脈はリスク2 フェイスブックは人脈濾過装置」


友人から「きわどい内容なので、『いいね』しにくい」と言われた。事情はいろいろあるだろうから、それはいっこうにかまわない。
彼は損保の代理店を経営している。
お客さんのなかには、居酒屋店主や酒造会社の会社員もいて、フェイスブックをやっているかもしれない。
へたに断酒家の記事を肯定すると、「スポンサー」が機嫌を悪くする。それを懸念しているという。
だが、その程度のことで機嫌を損ねる人なんて極めて少数であろうし、そもそもそんな人は、いずれ何らかのかたちでトラブルになる要注意人物であろう。
私はそういう人とは、はじめから関係しないように努めているが、これは気儘人の特権なのかもしれない。
だが昨今、こうした過剰な配慮が蔓延してきているような気がしてならない。テレビをみると、その過剰配慮ぶりは痛々しいくらいだ。
誰もが発信でき、また不特定多数と関わりが増えた社会では、こういう趨勢になるのもむりもない。
だからといって、異常に配慮して「半透明」になるのはどうか。むしろ自分の拠って立つところを明快にしてはどうだろうか。
日々こうして持論を展開するようになって、私は心からよかったと思っている。それは、はからずも人脈の整理ができたからだ。
私の言論など、対面で述べたら反発を食うようなものばかりだ。最後まで耳を傾けてくれる人はごくわずかである。
そんな妄言や詭弁には文章が適している。聴きたい人は最後まで読むし、嫌な人は見ずに済むからである。
フェイスブックをはじめとしたSNSは元来、つながることを企図して考案されたのであろうが、あろうことか、人間関係のフィルタリングに活用できるのであった。
強烈な磁場を築けば築くほど、同類同好の士が集い、そうでない者が遠のいて行く。これは面白い機能だ。
氾濫した人脈を軋轢なく整理する上で、SNSでの自己開陳はじつに効果的であることが判明した。これを使わぬ手はない。
写真:秋は鉄道イベントが多い。土曜日は尾久車両センター祭りのあと、私鉄のスタンプラリーであちこちへ。

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posted by 雄峰 at 11:25| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 66日目「酒癖と人気は遺伝するのか」


谷口 博幸ほどの人気者はそうはいない。これまでの交友関係のなかで、最高の人気者である。
私のような嫌われ者ですら、彼と仲良くしていれば、人気のおこぼれを頂戴できるほどだ。
谷口ーー以後、その号の「山泊」とよぼうーーの人気を紐解けば、やはり両親に行きつく。おとんもおかんも人気者なのである。
おとんはずいぶん前に物故されているから面識はない。だが、仏壇で爆笑しているおとんの笑顔には、いつもつられてしまう。
いかにも関西人のおとんは、関東的に見れば、はちゃめちゃな男といわざるを得ない。大阪の寅さんだと、おかんはいっていたが、じっさいそんな人物なのだろう。
おとんは大酒飲みであった。今なら、アルコール依存症と診断されたのではないか。
依存症患者の平均死亡年齢は52歳。おとんもそんな歳で死んでしまった。
一方のおかん。私はおかんを心より慕っている。おかんのいうことなら、私は何でもきくだろう。
北政所を前にした加藤清正や福島正則といった荒くれ武将どもは、こんなかんじではなかったか。
こうした関係もあり、山泊は私にとって弟のような存在なのである。
さて、山泊と出会ったのは8年前のこと。日本一営業マンとして名を馳せたリクルートをやめた彼が、俳優として映画に出演しようという時期だった。
ともにリクルートOBであり、即座に意気投合した。
その後、私のラジオ番組に出てもらったり、ともにピンチに立ち向かったりと、公私のつきあいが続いている。
彼は今のところ、酒癖に問題はなく、おとんのようになるとは思えない。だが、アルコール依存症は花粉症と同様にボーダーをこえれば発症するという。遺伝的な要因も濃厚であるというから注意が必要だ。
その人気を人徳に高めてゆくためには、まだまだ仕事で陶冶してゆかねばならない。酒で持ち崩している場合ではない。
さて、断酒して心残りなことがひとつある。それは、来る正月に、おかんの手料理を前に「交野桜」を味わえないことである。
もっとも飲まずとも、その人柄にふれることで、酒などでは得られぬ風韻を味わうこともできようが。
おとんは早世したが、酒とおかんに酔いしれた、幸せな人生であったのではないかな。
写真:山泊からの誕生プレゼント。我が家に設営の居酒屋キムトモバーで山泊と。

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posted by 雄峰 at 11:24| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 65日目「社会的アレルギーと俺」


アレルギーには無縁である。何を食べても、拒絶反応を示すことはない。
ただ、社会的事象に対してはアレルギー反応することが多くて困っている。
アレルゲンのひとつに「点滅」がある。
道路工事現場や路上のチカチカとした明滅装置。夜道を走る自転車の点滅ライト。ジョギングする人びとの点滅材(専用コースなら、いらんだろうに)。こうしたものが鬱陶しくてならない。
原発事故による電力規制はどこへやら、浮世はイルミネーション全盛である。
光の明滅は、私にとっては騒々しい限りだが、世の人びとの心を揺り動かすものなのだろうか。
子供の時のクリスマス体験がその原型なのか、そのあたりは私にはよくわからない。
また、「させていただく」表現もアレルゲンの一つである。
駅のアナウンスで、近年、舌を噛みながら「ドアを閉めさせていただきす」とやっているのに出くわすが、「ドアを閉めます」こそ適切であろう。
そもそも「させていただく」表現は大阪の船場商人発祥の、元来、浄土真宗門徒の特有の阿弥陀如来に対する謙虚な言いまわしである。
にもかかわらず、謙虚な表現方法として、すっかり世に蔓延してしまった。
こういうアレルゲンが私にはたくさんあって、外に出るとアレルギー反応が出まくってしまうので、つい引きこもってしまう。
さて、前置きが長くなった。酒の話に移ろう。
先日参加した「アルコールの夜」で「アルコール依存症は一種のアレルギーである」という発言があった。
いわゆる「ボーダー」以上に花粉を吸い込むと、花粉症を発症するように、アルコール依存症も、アルコールを摂取するうちにボーダーを超えてしまうと発症するというのである。だから、差別はよくないという論調であった。
「なるほど」と納得したのもつかの間、直後疑義がわき起こった。
なぜなら、花粉症の花粉は当人の意思に関わらず吸い込まされてしまうのに対し、アルコール依存症の酒は、かなりの程度、当人の意思によって摂取しているからである。
発症のメカニズムが同じだからと、花粉症とアルコール依存症を同列にするのはいかがなものか。
とはいえ、アルコールについて、我々は知識が少なすぎる。
「アルコールの夜」の参加者は、片足依存症に突っ込んだ、意識高い系のおじさんたちばかりであった。
それよりも、いま草刈り場にされている若い女性たちへの啓発こそが、日本社会の喫緊の課題であろう。
内閣府よ、我々未病おやじではなく、若い女性たち向けのイベントを企画されてはどうだろうか。

写真:「アルコールの夜」のコーディネーター月乃光司さんの著書。断酒の半年くらい前に読みました。

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posted by 雄峰 at 11:23| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 64日目「50年前の女性飲酒率は13%」


アルコール依存症には、女性のほうがなりやすいーー内閣府主催「アルコールの夜」で香山リカさんがおっしゃっていた。
アルコール依存症は、男性が約20年を要するところ、女性は10年ほどで発症するらしい。
そのせいか、現在女性患者が急増中であるという。
以前も書いたが、昔の女性は酒を飲まなかった。飲むのは「特別な女性」、つまり水商売の女くらいであった(父方祖母はその典型。酒タバコ、プロレスが好きで、飲んで歌って踊っていた)。
ところが、今や誰もが飲む時代になった。
調べてみると、1954年時点で13%だった女性の飲酒率は、2003年には63%に急増している。
さらに2008年の調査では、20代前半の飲酒率は男性を上回っている。もはや異常事態であるといっていい。
女性は飲酒量が男性の半分であっても、肝硬変になる年齢が男性より10年も早いように、女性の身体はアルコールに弱くできている。
これは私個人の見聞にもとづく印象でしかないが、酒好きの女性が重病に侵される度合いは高いようである。
今夏、乳癌で家内の友人が亡くなった。歳は私と同年の45歳。テレビ局勤務の彼女は、若い頃からずいぶん飲んでいたそうだ。
他にも同様に、酒飲み女性が重病に罹患するケースが散見される。因果関係は定かではないが、私にはあるように思えてならない。
家内はほとんど飲まないが、妊娠中や授乳中、私は無邪気に酒を勧めたりしていた。無知というのはこわいものである。
かくも女性のアルコール害については、あきらかに深刻であるにもかかわらず、警鐘が鳴らされることは少ないのはなぜだろうか。
電車の吊り広告でも、女性タレントによる酒の広告がごまんとある。
酒造メーカーは、まだまだ「市場開拓」の余地のある女性層をターゲットにして、消費拡大を図っているのであろう。
いずれ女性の酒害が喧伝されるようになれば、かつてのタバコ広告のように駆逐される日も来るはずだ。
だが、それまでに酒害に侵される女性たちはどうなるのか。未来の子供にも甚大な影響を与える重大事である。
景気や経済など、目先の指標を重視し、罪深い「情弱喰い」ビジネスを擁護する必要はあるまい。
50年で5倍増の女性飲酒率は、日本社会の毀損の度合いを示す数値でもあるのだ。

写真:「ネットニュースは見ない」なんて書いた矢先に、最大手ポータルのえらい人(あろうことかニュース担当)に遭遇。気まずいめぐり合わせがあるものです。(^^;;

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posted by 雄峰 at 11:22| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 63日目「情報の罠 収集しているのは、気分を正当化する材料」


飲まなくなってから、めっきりネットニュースを見なくなった。
二日酔いで迎えた朝、起き上がれず、ひたすらダラダラ見ていたものである。
そもそもニュースをはじめとした「情報」などというものは、私にとってまず役に立たない。
サラリーマン同士の日経新聞をネタとする語らいを否定するわけではないが、私のような者にとって新聞情報は使い道がない。
広域かつ詳細に物事を把握することは、逆に世の中を見えなくしてしまうからだ。
だから、新聞については、読んだ回数より登場した回数のが多いくらいである。
また、新聞に限らず、マスコミの論調を読むと、人物や物事に対して批判的というか攻撃的になってよくない。
元来の論評体質が悪化して、ますますイヤなおやじになってしまう。
そして何よりも、自分に関係のないことに無用の関心を持つことは、気が散漫になり集中力を減退させてしまう。
TPPや傾くマンションの問題は、私と何の関係もない。私のような者が、これらの当事者を論評する資格はないのである。
これが、自分の利害に直結するような出来事なら話は別だ。
たとえば、消費増税は事業者(消費者としてではなく)としては注目している。動向次第では、打たねばならぬ手立てがあるからだ。必要とあらば、声を張り上げる覚悟もある。
これはけっして利己的というわけではなく、「一隅を照らす」という責任ある態度だと自負している。
「偏差値教育」というと「悪」と条件反射するように、「情報」というと「収集」というのも思考が停止した条件反射ではあるまいか。
人間、しょせん自分の「気分」で生きているものである。ああしたい、こうしたいというのがまずあって、それを補強してくれる「情報」を集めているにすぎない。
飲みたい者は酒は百薬の長という「情報」を集め、飲まぬ者は酒は毒という「情報」を集める。要は、納得するための根拠を探しているだけのことなのである。
そんなものを集めるくらいなら、さっさと直観で動けばいい。「情報」収集など時間の無駄なのである。

写真:テレビはこの20年、「探偵!ナイトスクープ」と「NHKスペシャル」のみです。欠かさずみてます。

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posted by 雄峰 at 11:21| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 62日目「脳が溶ける。これぞ酒の醍醐味」


内閣府啓発イベント「アルコールの夜」に参加した。東ちづる、香山リカ、見城美枝子、辛酸なめ子の各氏、および月乃光司氏含む「当事者」お三方という顔ぶれ。とても有意義な内容であった。
そのなかで、見城さんが数学者広中平祐氏の言葉を紹介していた。
「酒を読むと脳が溶ける。数学をやる者は飲むべきではない」
こんな主旨の内容で、「すわ問題発言発生」とばかりに、一瞬場内に微妙な空気が流れた。だが、私は心中、快哉を叫んでいた。
酒たるもの、それくらいの毒気が必要だ。百薬の長なんていわれて、へらへらしているようでは酒らしくない。俺の脳を蕩けさせてくれ――そう考えるからだ。
「脳が溶けるから、飲まぬ」という生き方も当然ありだ。数学者になるのなら、飲まぬほうがよいのだろう。
だが、ふつうに生きるぶんには、頭脳がそれほどシャープである必要はない。むしろ、すこしくらい抜けているほうが愛嬌というものだ。
そもそも、すべてを益と害で二分しようという思考態度が愚かである。
毒でも扱いようでは薬になる。薬でも扱いようでは毒になる。人にせよ、食い物にせよそんなものだ。
両面ある対象への向き合い方を、自分なりに修得し、調整してゆくところに人生の醍醐味はある。
つまり、いかに酒と向き合っていくかにこそ、男は、おのれの人生を示せるのではなかろうか。
私は目下断酒しているが、これは酒が健康に悪いとか、損だからという理由からではない(ある程度あるが)。
酒との関係をいったん仕切り直し、おのれの人生の意味を定義し直そうと決意したからなのである。
写真:「アルコールの夜」に出る前は、坊やと「私鉄9社スタンプラリー」。奥沢、鮫洲、王子神谷…首都圏の駅は、なかなかつらいものがある…(^^)

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posted by 雄峰 at 11:20| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 61日目「食わせる店から、食わせぬ店へ」


友人の小柳次郎冠者がダイエットを始めた。身長175センチで体重92キロというから、痩せるべきであろう。
彼の酒癖と肥り方は、私のそれと酷似しているから、以前からひとごとではなかった。
次郎冠者は山登りを趣味にしていて、相当な山に登る。私も山は好きだが、東京なら高尾山か京都なら鞍馬山くらいがちょうどいい。
また、次郎冠者はよく走る。ウルトラマラソンも完走している。いま私はジョギングを習慣にしているが、そもそも彼から手ほどきを受けた。
そんな豪傑でありながら、ちっとも痩せない。痩せるどころか、肥える一方である。
弟子たる私は、今年ひと踏ん張りして身長181センチで体重68キロ。学生時代の体型に戻した。
この差は何に拠るものか。
次郎冠者と私にかぎっていえば、どうやら生命に対する執着の差なのではなかろうか。
次郎冠者は生命に対する執着が希薄であり、長生きしたいとあまり思っていないらしい。
彼の長者然とした人格はそのあたりの表れかと思うが、そういう者の宿業か、目先の健康よりも目先の飲み食いを優先してきた。
一方、私は生命に対する執着がとても強い。だから健康に留意し、飲食にも気をつかってきた。その分、ガツガツした卑しさが表出しまっているように思える。
我々に限らず、命への貪欲さのちがいは体型に表れるようである。
通常、生きることに貪欲であるほうが飲み食いしそうなものだが、こんにち真逆の現象が出来している。
飽食の時代といわれて久しいが、こんなところにもパラダイムの転換が見てとれる。
腹を空かせる苦痛ではなく、目の前のご馳走を我慢する苦痛に耐える。そんな時代をすでに迎えていた。
これからの飲食店とは、食わせる店ではなく、「食わせぬ店」になるのかもしれない。

写真:水木しげるのマンガ「今昔物語」を引っ張り出してきて、最近、寝床でこればかり。なんとも愉快です。ー 場所: 高尾駅

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posted by 雄峰 at 11:19| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 60日目「ぼっち冥利に尽きる」


断酒当初は、飲み会を飲まずにしのげるかを試すために、あえて飲み会に出てみた。
だが、飲まずにやり過ごせることがわかると、初期の目的を達したこともあり、飲み会から急速に足が遠のいた。
心境の変化もあった。どういうわけか、人恋しくなくなったのである。
さみしがりやの私は、飲みたいというより、人恋しくて酒席をさまよっていたようである。
仕事柄、人に会うこともまれで、丸一日誰とも言葉を交わさない日も、ままある。
すると、人恋しくなって、出かけたくなってしまうのだが、そのうずうず感が薄らいできた。
仕事に集中して、時々コーヒーや茶を淹れる。陽が落ちるとジョギング。ひと風呂浴びて、もうひと仕事。
寝床でマンガを読んだりするうちに1日が終える。これぞ、ぼっち冥利に尽きるというものだ。
断酒が馴染むにしたがって、以前なら耐えられなかった孤独な日々を受け入れられるようになっていた。これも、断酒の賜物である。
酒というものは、孤独を紛らわす効果があるというが、むしろ孤独感を増幅してしまうのではないか。そんな気さえしてくる。
さて、ここで「いったい家庭はどうなっているのか?」という声があがりそうだ。これについて、すこし説明しておこう。
私は自宅と仕事場を一泊交代で行き来しているのです。
なので、上記は仕事場にいるときの一日の様子。
家人のおかげで、三世代同居どころか一族集住。一家和楽が保たれています。妻に感謝。
写真:豊田駅車両センター祭。子供の時からしげしげと眺めていた車庫に初めて入りました。わたしが切り拓いていった「鉄の道」を坊やは悠々と歩んでいます。

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posted by 雄峰 at 11:18| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 59日目「濫用認定」


すでに書いたが、先日「アルコール依存症ではない」という医師のお墨つきを得た。ただし、その手前の「アルコール濫用」であるという。
濫用などという字面もなかなか重いものがある。通常「濫用」なんて言葉は「薬物」とセットでしか使われない。
なにはともあれ、よかった。ひとたび「依存症」と診断されれば、再飲酒は命取りになる。断酒のほかに道は残されていないからだ。
濫用段階では、酒場復帰は可能だ。とはいえ、以前のようにはなりたくない。
この2ヶ月、じつに快適だからだ。二日酔いのない生活とは、かくも安定感に満ちたものであるのか。
私にとっての二日酔いは、一種の「発作」なのだろう。
むろん自分で招いているのであるから、純然たる発作とはいえないが、当人からすれば「襲われる」というのが実感なのである。これから解放されたことは嬉しい。

写真:いつもの野菜販売所の梅干し。上杉謙信は梅干しで酒を飲んだという。私もその組み合わせを好んだ。だが謙信は卒中で倒れた。享年49。

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posted by 雄峰 at 11:16| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 58日目「賞賛? 挨拶? お礼? いいね考」


エレベーターで出くわした人にはこちらから挨拶するようにしている。
だが、同じ人から何度か無視されれば、挨拶しないようにしている。これは相手の意向を慮ってのことだ。
相手によって態度を変えることは、品性に欠ける行為であるとは思う。
だが、挨拶習慣のない人にしつこく挨拶するのも、自分の価値観の押しつけといえなくもない。
なんでこんな話をしているのかといえば、オンラインでの挨拶のありようについて考えているからだ。
もっとありていに言えばフェイスブックの「いいね」ボタンについてだ。そもそも「いいね」とはいったい何なのだろうか?
賞賛? 挨拶? お礼?
文字通り解釈すれば、賞賛ということになるだろうが、それだけとは言いきれない。
友達のばか食い記事やちゃらんぽらん記事にも「いいね」を付けることもままあるからだ(ただし、政治、企業などに対する論評は、善し悪しは別として、反応しないことにしている)。
むろん挨拶、あるいはお返しとして、「いいね」ボタンを押すこともある。むしろそれが大多数だろう。
これら「いいね」をめぐるスタンスの違いは、エレベーターでの挨拶同様、人間関係を微妙なものにしかねない。
そのあたりをつつがなくやるのがリテラシーというものなのだろうが、私はつい整理して向き合いたくなる性分だ。
もし「いいね」が有料だったらどうであろうか?
「いいね」代として1回1円を支払う。その一部を書き手が受け取る投げ銭システムだ。
そうすれば有用な記事を書こうと躍起になる人が増えるし、「いいね」について共通のスタンスが構築されるかもしれない。
既存の「いいね」は「みたよ」ボタンに代替させ、こちらは無料にするのはどうだろうか。
そんなことはもう運営会社は検討済みなのだろう。やらないところをみると、それではSNSの醍醐味が損なわれると判断したのかもしれない。
ともかくフェイスブックという偉大な発明なくして、私の断酒はなしえなかった。とても感謝している。
これを今後、いかに生産活動に結びつけてゆくか、まだまだ工夫の余地はありそうである。
写真:野口悠紀雄を尊敬している。『「超」集中法』は良書だが、本書で提唱される「集中」は私の得意分野だ。
私に必要なのは『「超」中庸法」なのだが、そんな本はない。自分で書くほかなさそうだ。

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posted by 雄峰 at 11:15| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

断酒日記 57日目「茶の堕落 酒の堕落」

禅僧栄西がもたらして以来、茶は長らく「薬」であった。室町末期に村田珠光、武野紹鴎、千利休を経て、それは「嗜み」から「芸術」へと昇華していった。
当時、人びと日常的には水を飲んでいたので、茶は非日常の格別なものであった。
こんにちのように、ペットボトルでぐいぐい飲むというしろものではなかったのである。
そんな時代の茶だったからこそ、芸術の題材となったわけで、現代における茶道と当時の茶の湯は質的に異なるとみたほうがよいだろう。
おのれの命を的に生きる荒くれ武将どもが、たぎった血を鎮めるために喫する茶。
小笠原礼法でがんじがらめになった対座の面倒を避けるために利用した茶席。
茶の湯とは元来、男たちの事情によって成り立っていたのである。
こんにちのように、女衆の手習いとしての茶道には、茶の湯に込められた往時の気魄というものはもはや見受けられない。
これは酒についても同様である。
その昔、酒にありつけたのは冠婚葬祭のときくらいであった。
とくに祭の酒は、日常から離れてハレの日を祝うものであった。
また、神事に用いられるように、酒は神との交歓のための触媒でもあった。
血を鎮めるための武士の茶、血をたぎらせるための庶人の酒。両者の好対照ぶりが面白い。
そんな酒が、いまや水以下の日用品に成り果ててしまった。
ここで、本来の酒の存在意義は失われたといえよう。
酒が堕落した現代においては、飲まぬほうがむしろ「神」に近接できるのではないか。
写真:幼稚園に送りついでに野菜を仕込み、仕事場で鍋にします。最近、どういうわけか餅が好きになってきました。

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断酒日記 56日目「エイズ検査は陰性なれど」

今から14年も前のことだ。「おれはエイズではないか」と急に心配になって、あわてて検査を受けたことがある。
大久保の路地裏にある「最前線」のクリニック。ここは採血後、15分ほどで結果が出る。
日当たりの悪い院内は静けさにつつまれていた。先客の中年男がソファに腰掛け、所在なげにしている。
やがて彼は呼ばれ、診察室に消えていった。待つこと数分、彼はとても晴れやかな顔をして出てきた。それを見て、心底うらやましく思った。
いよいよ私の番だ。あっという間に採血されて退室。
結果が出るまで15分、雑誌など読む余裕はない。心中、ひたすら神仏御先祖様に祈りを捧げるのみだ。
「YSさん」
私のことだ。ここではプライバシーを配慮して、患者はイニシャルで呼ばれる。
診察室に入り、丸椅子に腰をかけた。医師は血液の入った試験管を目の高さに掲げながら、ぼそっとつぶやいた。
「まあ、だいじょうぶでしょう」
全身から力が抜けた。
嬉々として家路に就いたが、道すがら、医師の言った「まあ」が気になり始めた。
翌日も翌々日になっても、「まあ」が頭から離れない。
さらに、いろいろ調べてみると、あれやこれやと心配になり、ひと月半後にもう一度検査を受けたほうがいいという結論に達した。
それからのひと月半は、地獄の日々であった。
日夜、エイズ治療の記事や患者の手記を手当たりしだいに読んでは、将来に絶望した。
仕事も手につかず、相棒に丸投げ。
昼過ぎまで寝ていて、ちょっと会社に顔を出して、最低限の用事をこなす。それから飲みに出て、夜更けまで何軒もはしごして、泥酔してはブラックアウト。
飲んでは、目の前の現実から目を背ける。そんな日々がひと月半つづいた。
幸いにして、2度目の検査でも陰性という結果が出て、ことなきを得た。
だが、私はあの時、すでに忍びよっていたもう一つの脅威に気づいていなかった。
もう一つの脅威とは、いうまでもなく酒である。
エイズノイローゼの期間で、私の酒はすっかり様変わりしていた。
飲んで酔うことで現実逃避する。そんな回路が開通してしまっていたのである。
エイズ検査は陰性であったが、このとき同時に、私の酒癖も「陰性」に陥っていたとは、当時は思ってもみなかった。
写真:友人・冨田直子さんの会社が10周年を迎えました。いただいた旅行券で、新潟スタンプラリーへ。いい思い出ができました。とみたさん、ありがとう!

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断酒日記 55日目「『1日を生き切る』とは、やるべきことを日課に盛り込むこと」


外からの刺激をきっかけに行動できるのは、若いうちだけ。30代も半ばを過ぎれば、外部からの刺激では行動できなくなる。
それでも、それまでの「成功体験」から離れられず、人生好転のきっかけにしようと刺激を求めてさまよってしまう。
酒場をさまよい、パーティを行脚する。新しい出会いで人生は変わるはずーー刺激で人生を変えようとするのが、東京砂漠に生ける者の悲しいさがだ。蜃気楼にいくら手を伸ばしたところで、何も掴めやしない。
彼らが掴もうとするものは、刺激をつうじてでは獲得できない。
なぜなら、中年以降の刺激は「外」ではなく、「内」にシフトしてしまっているからである。
もっといえば、中年になっても依然として「外」の世界に可能性を求めているあたりで、そもそもセンスがない。
その頃までに未練を残さぬように取り組んでおくべきであろうし、仮に思い残すことがあったとしても、それは潔くあきらめるのが成熟した大人というものであろうから。
ともかく、刺激は「内」にある。そこには、まだ見ぬ世界が広がっている。
では、いかにすれば、その世界にアクセスすることができるのであろうか。
それは日々の習慣に磨きをかけることだ。
仏教の講話でよく「1日を生き切れ」ということがいわれる。
長らくその意味がわからなかったが、「1日を生き切る」とは、どうやら、やるべきことややらねばならぬことを1日の中に盛り込むという意味なのではないか。
たとえば、ジョギングにしても、週末やろうとすると面倒なものだ。日課に組み込んでしまえば、身体は自動的に動く。
運動に限らず、仕事、勉強、趣味。まとめてやるのではなく、日課の中に埋め込み、毎日毎日少しづつ手がけてゆく。それが、1日を生き切るということなのではないか。
だが、1日に詰めこめる容量は厳然と存在する。そこで私は日課の中から、晩酌を外すことにした。
写真:高尾山麓「するさしの豆腐」。アルコール治療の駒木野病院のすぐそば。おかげさまで、「依存症」ではないという診断でした。(^^)

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posted by 雄峰 at 11:11| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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