2016年05月19日

日記0519

頚椎症性神経根症
脂肪肝
緑内障
腎臓結石
排尿後尿滴下
そして、脇の下のイボ。
これが、いま私が抱える健康上の懸案事項だ。いずれも、原因に思い当たるところがある。
頚椎症は長年、枕を高くして、寝ながら本を読んだり、スマホ、ノートパソコンも首に悪い。
とくに昨年来、原稿の直しで下向きの姿勢が多かった。これがとくによくなかったのではないか。
昼間ジョギングすると、視線は下向きになる。通行人と視線を交わすと、けっこうエネルギーを消費するもので、それを避けるとそういう姿勢になる。これも首にはダメージを与える。
このように、私の頚椎症はなるべくしてなったといえる。
整形外科にかかったところ、「頚椎の炎症」ということであったが、頚椎症性神経根症というのが正式な病名らしい。
これによれば、左手の指の違和感、肩甲骨のコリ、右肩が下がる、上を向くと首が痛むなど、私の症状すべてに合致している。
長年あった違和感がこうして解決したことを思うと、もっと早く対処しておけばよかったように思う。
テレビでもみていれば、こんな健康情報に出くわすのかもしれない。その点、読書だと、おのれの関心事に依拠することになる。
この点も含めて、生活習慣病なのであろう。
posted by 雄峰 at 06:13| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

【160328】1日も欠かすことなく、日記は今日で200日目を迎えました。

1日も欠かすことなく、日記は今日で200日目を迎えました。
自分を知る得難い機会になりました。何事もやってみるものですね。
以前もふれたとおり、明日からしばらく(100日?)日記は休止して、拙著『英雄問答』を紹介していくことにします。よろしければお読みになってください。
『英雄問答』はこれから商業出版する予定です。出版のあかつきには何卒ご贔屓のほど。m(_ _)m
尚、将来的には本書を土台にした「学校」を設立しようと目論んでいます。私は執念深いので、いずれ陽の目をみることでしょう。
さて、100日目を境に、私はフェイスブックを引退しました。これは英断でした。
リアルおしゃべり(=飲み会)とバーチャルおしゃべり(=フェイスブック)をやめることで、文章で語ろうとする意欲が高まったからです。
しゃべり散らしていると、そこで発散されてしまって、文章に帰結させる力が弱まってしまうのでしょうね。
現在の形式にも慣れてきて、すこし楽しくなってきてしまいました。
この状態に淫してしまっては未来がありません。このあたりで、つぎの100日に向けて、さらにストイックな挑戦をしてみようと思いました。
それは「沈黙の行」です。
1 コメントには無反応(メールには当然リアクションします)。
2 スマホからFB用アプリを削除(FBアプリはすでに削除済み)して、PCから1日1回程度(週末は休むかも)のアクセスにとどめる。
3 日常的にも無駄口や余事を排除して、コンテンツ制作に集中する。
そんなことをやってみたら、私にいかなる化学反応が起こるのか。それを実験してみたいと思います(いずれ報告します)。
さて、どんな方が反応してくださるのかは、私にとってとても興味深く、これからも日々楽しみにしています。
雰囲気は変わりますが、これからもよろしくお願いいたします。
盛池雄峰 拝
posted by 雄峰 at 08:01| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160327】こんなに気難しく、こうるさい男の嫁とは、いったいどれだけ「できた人」であろうかと思われるかもしれない。

こんなに気難しく、こうるさい男の嫁とは、いったいどれだけ「できた人」であろうかと思われるかもしれない。
大家族の嫁として、義父母とも義妹家族とも折り合いがよく、子供たちにもやさしい。
幼稚園のママ友たちとも仲良く、近所づきあいもいい。私が孤立しているのとはえらい違いだ。
貞操観念が堅固で、身体も丈夫。2人の子供を産みながら、あのナイスバディはたいしたものだ。
日がなのんびりテレビを見て過ごし、夜は8時には子供たちと寝てしまう。
彼女のすごいところはこれだけではない。
まず第一に、夫に無関心である。これは武士の内儀の嗜みとされていた美徳だ。
「愛情の反対は無関心」というが、甲斐甲斐しさの見返りに束縛されるくらいなら無関心でいてくれるほうがどれだけありがたいことか。
そして何よりもよかったのが、私と話が「まったく合わない」ことだ。
私がいくら日本およびその歴史を憂慮しようと、彼女には馬耳東風。「演説」を始めると、数分でウトウトし始める。
当初はそれにいらだったが、いまは違う。夫婦の会話は、週に原稿用紙1〜2枚程度でいい。それが夫婦円満の秘訣。夫婦の会話は減らすにかぎる。これが阿吽の呼吸につながるのである。
もっとも、私のような異常活力者にまともに向き合っていたら精神を病んでしまう。
私にしても、相手にされないからこそ外の世界で勝負しようという気魄がみなぎる。
西郷隆盛も大村益次郎も家庭には居場所がなかった。家庭の居心地がいいことは、男にとってけっしてよいことではないのだ。
「あげまん」とは甲斐甲斐しい女というより、なんであれ男を奮起させてくれる女をいうのだろう。
これぞ天の配剤、夫婦とは妙なるものなり。

○耳学問の盛池塾
サイトをリニューアルしました。過去のラジオ音源もお聴きいただけます。
http://yuhoo.jp
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【160326】以前、未公開株で損をした。

以前、未公開株で損をした。
そこの社長が詐欺罪で逮捕されて会社がつぶれたのである。当然、株券は紙屑と化した。
その会社は、金持ち向けの雑誌を刊行していて、金持ちの子弟をスイスとかの学校に入学させる代行業なども手がけていた。
同社のビジネスモデルには興味がなかったが、いろいろいきさつがあって購入することになった。
時代はいわゆるネットバブル期。こういう与太話がそこらじゅうに転がっていた。
私のところにもよくそんな話が持ち込まれ、手を出しては儲かったり損したりしたものだ(尚、株や為替はアベノミクスで上がったときに全部売り払った。今後はいっさいやらない)。
友人のギャラリストが当該社長と仲が良く、彼らの豪勢なセレブ話をよく聞かされたものだ。
そんなのはしょせん「広告宣伝」だからと話半分で聞いていたが、噴飯話が多くて楽しかった。
たとえば、「NASAが撮影した映像が手に入る。それを上映する立ち食いそば屋を始めようと思う。ついてはーー」とか、思い出すだけで笑いがこみ上げてくる。
マルチビジネスをやる人の常套的手法は、派手な生活ぶりを披露して「子ネズミ」を集めるというもの。
つま先をぶるぶるさせながら背伸びして、ギリギリの見栄戦略を展開している。
「資本」が尽きたら、そこでおじゃんだから悲壮感がすごいのだが、昨今、その手法が民間人の間にも広がってきているようである。
フェイスブックで派手で楽しげな生活ぶりを披露するさまに、その雰囲気を嗅ぎ取る。
もっとも、セレブ商売やマルチをやる人は、たとえ見栄や虚勢を張っても、そこにキャッシュポイントがあるからまだいい。
だが、一般人がいくら見栄や虚勢を張ったところで得られるものは「いいね!」でしかない。
よけいなお世話であるが、あまりにも無為な営みではないか。
フェイスブックを引退して3ヶ月になる。やめてほんとによかったと思う。
日常のなかに巣食う見栄ポイントが極端に減ったからだ(たとえば、無為に写真を撮らなくなった)。
フェイスブックは見栄の博覧会。へたに参加すると、足元をすくわれかねない。
posted by 雄峰 at 07:59| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

【160325】「選挙にカネがかかる」とはよく言われるが、どこにどんなふうにカネが流れているのかーー100人中99人、いやそれより多くの人は知らないはずだ(市の総務部長も知らなかったのには驚いたが)。

「選挙にカネがかかる」とはよく言われるが、どこにどんなふうにカネが流れているのかーー100人中99人、いやそれより多くの人は知らないはずだ(市の総務部長も知らなかったのには驚いたが)。
ここでばらすのは控えるが、それを知ったとき、日本社会の「地に足のついた精神性」を発見できて嬉しく思った。
もう一つ感動したのが「政治部記者魂」である。
私はドクター中松氏や羽柴誠三秀吉氏などに連なる独立系泡沫候補であったが、どういうわけか左翼陣営と目されていた。
NPO代表という肩書きがそんな風聞を招いたのかもしれない(その一方で、著書『北方四島の記憶』を持ち出して「右翼の青年」とよばれたこともある)。
そんな謎の男に、NHKの政治部記者がコンタクトしてきた。
「私のような者に関わっても意味がありませんよ」と告げたが、何やら熱心である。
会ってみたが話が噛み合わない。彼はいったい何を目論んでいるのか?
しばらく経ってから、ようやく合点がいった。彼は「キングメーカー」になろうとしていたのである。
田舎の県議選で「キング」とは笑止千万であるが、要はメディアの力を使って私を当選させようということらしい。
「メディアが政治を左右しようとはけしからん」などとチンケなことを言うつもりはない。古来、メディアというものは政治を左右するものだからだ。
それを目の当たりにできたのは感動的だった。
政治を批判するのはたやすい。だが、やめておくほうがダンディだ。なぜなら、メディアに切り取られた政治情報なんて一場のネタでしかないからだ。いい大人が、キッザニアでビジネスを語るようなものだ。
もっと悪態をつけば、政治を語ることは霊感を語るようなものでもある。「みえている」のは当人だけだからである。
政治と宗教について紳士が語らないのは、馬脚をあらわしやすいからではないか。
政治の現実を知る者は口をつぐみ、宗教の現実を知る信仰者は無言で拝み祈る。
政治談議とは結局、酔っ払いおやじがガード下で語る与太話でしかないのである。
posted by 雄峰 at 12:06| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160324】家庭裁判所から「OK」をもらってからまもなく1年になる。旧名「雄歩(ゆうほ)」を「雄峰(ゆうほう)」と改めたのだ。

家庭裁判所から「OK」をもらってからまもなく1年になる。旧名「雄歩(ゆうほ)」を「雄峰(ゆうほう)」と改めたのだ。
昨今、DQNネームとかキラキラネームとかいわれているが、私の名などその走りであろう。
変な名前をつける親は、子供の人生に対する想像力が希薄であると言わざるを得ない。つけられた子供が直面する困難を想像できていないからである。
親父にも彼なりのロマンティシズムがあったことはわかっている。
だが、それは人の名において実行すべきではない。せいぜい本のタイトルとかペットの名前くらいにとどめるべきだろう。
ともかく子供の名に過剰な「想い」を込めてはならない。それは「重荷」でしかないからだ。
さて、改名は意外とかんたんにできる。5年も強引に名乗っていれば裁判所が戸籍名として認めてくれる。費用は800円程度。
だが、犯罪者が名前ロンダリングに悪用することもあるので社会的信用が必要だ(私は拓殖大学客員教授の登録名を「雄峰」にしていたのでスルリといった)。
親がつけた名を変えることは、整形に近い背徳感がある。改名に踏み切るには義絶に近い決意がなければなしえない。
こんな私でもそのあたりは引っかかった。「雄峰」とあたかも僧籍を取得したかのような隠微な変更にとどめたのもそういう心情の表れだ。
ちなみに、改名したら運がよくなった。
姓名判断とかまったく興味がないが、自分で命名したことで地に足がついた感じがした。これが自信をもたらし、ツキにつながったのかもしれない。こんな効果もあるから、改名は人生の選択として悪くない。
日吉丸が木下藤吉郎、羽柴秀吉、豊臣秀吉となっていったように、名前など気分と気概でどんどん変えればいいと思う。
二十歳になったら、いったん名前を継続するか変えるか意思を問うのはいかがだろうか。いかにも成人行事としてふさわしいと思うのだが。
我が子には一生懸命考えて命名したが、彼らが変えたいと考えるのなら、変えてもらって何らさしつかえない。
君たちの人生は、君たちのものだ。親の所有物ではない。
自分の人生は、自分で編集していけばいいのである。
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【160323】「この本の主人公、ゆうちゃんにそっくり。読んでみたら?」

「この本の主人公、ゆうちゃんにそっくり。読んでみたら?」
大学時代に交際していた彼女が差し出したのはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』であった。
そのとき私は(俺にそっくりな男の話なんか読みたかないね)と手にも取らなかった。
あれから四半世紀が過ぎた。今さらながら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹訳)を読んでみた。
ーー何度も唾を飲み込みながら、ドキドキしながら読了した。
(これは、俺だわ…)
主人公ホールデンは名門高校に通う18歳。
何もかも気に入らない。あたりかまわず噛みついて総スカンを食っている。
彼なりの正義感も美意識もあったが、そんなことをわかろうとする人は周囲にいない(ふつういない)し、彼自身も開き直って悪ぶっていた。
退学させられたホールデンは、それから1年後、精神科医と向き合うことになる…
私がよくわからない衝動で語りかけている対象は「ホールデン」だったのだ。
そして同時に思い知る、当時の彼女の気持ちを。
最後の助け舟と差し出した本に見向きもしなかった「ホールデン」。その後、私に愛想を尽かし、彼女は成熟した男性の元に身を寄せたのも無理もない。
人を傷つけ人を損ね、その挙げ句、自分自身を傷つけ損ねる。そんなホールデンな俺ーーこんな馬鹿者をサリンジャーは描いていたのだ。
幸運にして私は生き延びた。ホールデンはその後どうなったのだろうか(サリンジャー自身?)。彼の消息が気になってしかたがない。
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【160322】我が家と隣の妹家族7人が墓参りに出かけて行った。ついでに食事して見物しての物見遊山である。

我が家と隣の妹家族7人が墓参りに出かけて行った。ついでに食事して見物しての物見遊山である。
私は不参加。仕事場に出てきた。
基本的に祝祭日は無視していることもあるが、「いない」ほうがみんな幸福だからだ。
私がいて喜ぶのは坊やくらいで、他の面々は気詰まりに感じる。これは私とて同様であるから、欠席するのが穏当なのである。
詩人・加島祥造の『タオ』に、「統治が完成したら、ひっそり身を引くんだ」という詩があった。
統治を成したからと、そこに居座り威張ったりしていては、みんなの迷惑だし、私自身もそこで一丁あがりになってしまう。
私はつぎに駒を進めるべく孤塁を守ろう。
孤独であるが、こういう役回りにはすっかり慣れた。
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【160321】一昨年、初めて銀行から融資を受けた。建物の建築費が足りなかったのである。

一昨年、初めて銀行から融資を受けた。建物の建築費が足りなかったのである。
担当者とは数年のつきあいで、足繁く通ってくるので折々金融商品などを買っていた。投資には興味がない。あくまでもつきあいとしてだ。
「融資の御用命はありませんか?」と聞かれるたびに、「ないなあ」と答えてきたが、事情が変わって借りることにした。
いざそうなると、担当者の雰囲気がちょっと変わり、じっさい融資が決まると「債権者」に変わり身を遂げた。
狭量な私はこういうのにやかましい。ちょっとしたすれ違いがあったとき、「マンション売って、さっさと返済するかなあ」とぼやいた。その途端、彼は態度を豹変させ、もとの揉み手に戻った。
駆け引きほど心身を消耗させるものはない。夫婦間でも仕事の取り引きでも駆け引きのないに越したことはない。
値引き交渉なども不毛だ。身辺からの「交渉」排除は、ストレス対策の根幹であろう。
ーーと書いていたら、高校時代の友人からメールをもらった。
彼は別のメガバンクのエリート行員で、昨日の「不快銀行」の記事を気遣ってくれるような紳士だ。
Aくん、ごめん。今日も銀行ネタだわ。m(_ _)m
で、さらに続ける。
何度もいうが、私は銀行やマスコミを総体として批判しているわけではない。どんな世界にも、紳士もいればゲスもいる。
私は、戦後日本において、いよいよダンディズムが喪失してしまったことを嘆いているのである。
私はそのなかでも、もっともダンディズムに欠ける品性下劣な部類だと思う。
こんな功利主義者ばかりになってしまっては社会は立ち行かない。
いま懸命に公の一部としての自己を確立しようとしているが、一生かかっても、「人間の芸術作品」と司馬遼太郎が絶賛したような域には達することはできないだろう。
日本の強みは、武士道由来のダンディズムに他ならない。
ダンディズムの回復が国の根幹を強化してくれる。いくら経済政策やら何をいくらやっても無駄である。そこに生きる人びとの精神が問われているからだ。
みっともないことをやらないで、立派なことをやる。
こんな当たり前のことが「異常」とされるのが、異常消費社会に他ならない。
自分にみる日本人の劣化ーーそれが私の日々の憂悶なのである。
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【160320】以前、某メガバンクから講師を頼まれた。その際「しきたり」として、丸の内の本店に挨拶に出向くことになった。

以前、某メガバンクから講師を頼まれた。その際「しきたり」として、丸の内の本店に挨拶に出向くことになった。
そこで面会したお偉いさんほど不快な人物は後にも先にもいない(あ、もう1人いたなあ)。
「こやつがふんぞり返っている社会を、いずれひっくり返してやるわい」と腹の中が煮え立った。
じっさい、そんな屈辱感が革命の原動力になるものだ。
明治維新の志士は三千人くらいであろうと司馬遼太郎は推測する。
当時の人口を元に換算すると、1万人に1人(現在の八王子市に換算すれば50人)という割合になる。
0.01パーセントの人間が本気を出せば世の中は変わるのである。
彼らの階層は「上の下」というところだろう。
近年、民衆史観イデオロギーが蔓延してきて、しばしば下層民が改革を担ったとされるが、さにあらず。
じっさいは下級武士、つまり見下された読書階級が主力であった。
現代社会になぞらえれば、私などまさに「上の下」に属すると思われる。
私は、いわゆる「上から目線」に対しては過敏で、「見下す者」を見下そうと躍起になる。
マスコミなどの「権力者」(ちなみにこんにちの政治家は権力者とは思えない)に食いつくのは、習性というより、天が与えた役割ではないかーーそんな気持ちにすらさせられる。
なんであれ、状況を勝手に解釈し、勝手に使命感を持っているほうが日々ハツラツと生きられる。
損で面倒な役回りだとは思うが、こんな人生であろうと、渾身の力でのぞむほかあるまいーーと旅の空。
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【160319】勘定してみたら、今月の28日に日記200日目を迎えることがわかった。

勘定してみたら、今月の28日に日記200日目を迎えることがわかった。
断酒のモチベーション維持と文章修行のために日々丹精してきたが、思いがけず読者を得られて嬉しいかぎりだ。ありがとうございます。
さて、この日記にもしだいに慣れてきてしだいに余裕が生まれてきた。悪くいえば、調子に乗ってきた。
これはよくない兆候だ。ぬるま湯にひたっていては未来がない。このあたりが、自分に負荷をかけるタイミングであろう。
では、何が「負荷」なのだろうか?ーーとジョギングしながら考えた。
どうやら「日々の心境を綴らない」ことが、今の私にとって負荷であるという結論になった。
思いついて間もないので、それがよいのかまだ判然としないが、この日記を断つことはちょっとつらい。
馴染んだ日課はこなさなければ気持ち悪いものだ。落人日記もそんな位置づけにある。
このタイミングでちょうど、2年がかりの原稿がようやく仕上がった。
201日目からは、この原稿(=『英雄問答』)を部分的に公開していこうかな。
原稿を淡々と公開することは、この場の継続になるし、私にとってもちょっとした「苦行」にもなる。
まだ10日あるので、もう少し検討してみよう。
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【160318】ショーンKさんを紹介されたのはもう10年近く前のことだ。

ショーンKさんを紹介されたのはもう10年近く前のことだ。
表情や語り口をばっちり作っている、とても不自然で、とても「まじめな方」という印象を持った。
初対面の私にかすかな警戒感を持っている様子だが、それを表に出さないように努力されている。そんな紳士であった。
佐藤優さんが出獄して最初に出演したのは私の番組であった。
まだ彼の評価が現在のようになる前のことで、私もどんな人物なのか興味津々であった。
佐藤さんは巨大に似合わずキョドッていて、復帰にかけていくぶん緊張されているようであった。
ぎこちないが諸事本気。佐藤さんもダンディであった。
大桃美代子との三角関係など、何かと艶聞の多い山路徹さんとは、彼の会社で面会した。
とてもにこやかな人で、育ちが良さそうな人という印象を持った。
私のような若造相手にも礼儀正しく、それでも他人行儀というわけではなく気さく。モテるのは当然だと思った。お尻をさわられたら、私も拒めなかっただろう。
「悪人」に実際会ってみると、マスコミで語られたり映し出されたりするのと「別人」であることがわかる。
そんな体験を数多くしてくると、今回の騒動でも、ショーンKさんの人間性をあれこれ言う気には当然なれない。
直接知りもしない人をあげつらうのは卑怯である(知っていても同様であるが)。中国人や韓国人だと、十把一からげにして語るのとなんら変わらない。
紳士たる者、そういうみっともないことに手を染めるべきではない。おのれの「一隅」だけ照らせばいいのである。
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【160318】手のひらにポチっとホクロができた。1週間ほど前のことだ。

手のひらにポチっとホクロができた。1週間ほど前のことだ。
最初は気にしていなかったが、だんだん気になりだした。
(これはガンではないのか?)
いったん不安が発動すると止まらなくなってしまうから困る。
以前、神田昌典さんがホクロのガン(メラノーマだったが完治!)で苦しんだことを思い出し、身体から力が抜けた。
見れば、中指の爪の縦筋も気になる。足裏は問題なさそうだ。
過去に2度、病気ノイローゼに罹っている。
1度目は大学2年の時、ガンノイローゼになって日々枕を濡らした。2度目は32歳の時、エイズノイローゼに罹って酒に溺れた。
私はとても神経質だ。小心で用心深いので、対世間ではそんなに苦労しないのだが「暴走する自分」にはつねに苦労してきた。
「世間」で悩むか「自分」で悩むか、人それぞれだが、悩みのない人間はいない。それぞれの悩みに向き合うしかない。
ネットで調べるかぎり、私のケースはまともな人なら気にしないものと思われる。
居合わせた編集者も「私も何年か前にここにホクロができましたよ」と気にしていない。そういう性格はうらやましい。
高校の先輩が近所で皮膚科を開業している。すぐさま行けばいいのだが、二の足を踏んでいる。
一刻を争う話ではないし、こういう機会に、苦しみながら、健康と生死について考えるのも悪くないからだ。
posted by 雄峰 at 11:57| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160317】法律番組をつくっていた関係で、弁護士と日常的に接するようになった。驚いたのは、彼らが一様に「別にやりたいこと」を持っていることだ。

法律番組をつくっていた関係で、弁護士と日常的に接するようになった。驚いたのは、彼らが一様に「別にやりたいこと」を持っていることだ。
ある弁護士は映画を製作した。
ある弁護士は本を書いて、作家への意欲を燃やしている。
ある弁護士は大学教授の道に進んだ。
私の顧問弁護士も、○○に野心ありと仄聞した。
むろん仕事命という人もいるが、私の周辺ではごく少数だ。
私はここに「プロフェッショナルの時代からアーティストの時代」への胎動をみる。「処理」から「創造」へのシフトといってもいい。
私も「処理」で報酬を得ている。やり甲斐もあるが、それだけは嫌だ。やはり、何かしら創造していきたい。一銭にならなくても何か創っていたい。
弁護士諸氏の「内職」にもそんな心の内が見てとれる。
話はそれるが、以前我が家に、某メガ新聞の記者が取材に来ることになった。取材とはいうが要は飲みである。
「もう2人同行していいか?」と言うので「いいよ」と告げた。やって来た同行者はあろうことか裁判官(男女1人ずつ)であった。
近年、非常識判決が問題になっているせいか、彼らに社会常識をつけさせるために、こんな「社会科見学」が導入されたらしい。
「取材」中、我々はさんざん酔っ払ったが、2人は飲まずにいた。
こんなの、社会勉強にはならないだろうと思ったが、そうでもなかったかなと今では思っている。
法律家は純粋培養ではなく、やはり「中途採用」を主にすべきではないか。世間力なき者に法律を濫用されては、軍国日本の二の舞だ。
かつて、世間知らずの士官学校出エリートが国をめちゃくちゃにしたように、「密室エリート」は国家の獅子身中の虫となる。
権力を監視するーーかの記者の属する新聞社はそんなことをよくいうが、彼が監視すべきは、目の前の法曹人ではなかったのかな。
posted by 雄峰 at 11:56| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160316】銀行は「金貸し」、弁護士は「代言屋」、新聞記者は「ぶんや」、証券会社は「株屋」ーー大正生まれの叔父はすべてがこんな調子であった。

銀行は「金貸し」、弁護士は「代言屋」、新聞記者は「ぶんや」、証券会社は「株屋」ーー大正生まれの叔父はすべてがこんな調子であった。
九州の片田舎から血気盛んに単身上京。最高学府、最高省庁に進み、一時は栄光を掴んだが、やがて哀しき田舎者。調子づきすぎて転落して、金融ブローカーへと堕ちた。
私が高3のとき、電話してきて、叔父はこう言った。「おい、ゆうちゃん、帝大に行けよ。せめて官学にしろ。俺の息子も帝大に行ったぞ」
「はい」と答えたが、疑問が生じた。(叔父には、子供がいなかったはずだが?)
親父に質すと、どうやら「隠し子」がいたらしい。その彼が「帝大」に入学したのだそうだ。
死んでだいぶ経つが、かの豪傑からはずいぶん影響を受けた。
世間のいわゆる「えらい人」に対してなんら気おくれしないのは、叔父の薫陶の賜物だろう。
肩書きに怖れるほどバカバカしいものはない。こんにち福沢諭吉が生きていたら、「親の仇」として侮蔑することだろう。
だが、こんな私でも畏れる対象がある。それは芸術家である。
そのへんのアーターをいうのではない。真のアーティストである。
新しい価値を生み出す人びとだ。そういう意味では絵描きや彫刻家ともちがう。「発明家」といったほうが適切かもしれない。
このアイフォンを作ったジョブズ氏など典型的なアーティストだ。
日本にも、千利休、蓮如、夏目漱石、空海、源頼朝、織田信長、日露戦争を戦った陸海軍首脳、ソニー、世阿弥といった独創家が少なくない。
プロフェッショナルの時代からアーティストの時代へーーという話はまた明日にでも。しからばこれにて。
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【160315】高尾山麓に、ツバメが舞い始めた。

高尾山麓に、ツバメが舞い始めた。
私はツバメを異常に愛していて、仕事場のベランダのイスに腰掛けて、高尾駅の上空を舞うツバメを飽きずに眺める。
ツバメを「誘致」するために毎年がんばってもきた。だが、なかなかままならない。
昨年は隣に暮らす妹宅の軒下に巣掛けしそうになったが、なぜか沙汰止みとなった。
我が家の玄関先にも巣掛けしやすいように棚を作ったが相手にされなかった。
もう何年も前になるが、旧宅の軒下に巣掛けしたことがある。ぶじ産卵し、毎日巣の様子を眺めるのが楽しみだったが、ある日、巣が落ちてしまった。
親ツバメは半狂乱になり、割れた卵の周りを飛びまわっていた。あの様子は、いまでも人生レベルのトラウマになっている。
ツバメをみるなら、新潟の頚城平野が最高だ。
高田の雁木通りを低空飛行するツバメ、妙高山の燕温泉はその名の通り、ツバメが乱舞する(一昨年泊まったら、カラスに追われて来なくなりつつあるらしい)。
自衛隊高田基地の観兵式。おごそかに繰り広げられる式のなか、風を切るツバメの勇姿。
山あいの棚田。家の軒先から飛び立つツバメと口を開け餌を巣で待つ子ツバメたち。
花は梅、鳥はつばくろ、風は皐月の鯉のぼり。月は比叡山にかかる朧ーーこれが私の花鳥風月。
posted by 雄峰 at 11:54| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160315】「寂しい人はカネがかかる」と木村剛さんは言った。

「寂しい人はカネがかかる」と木村剛さんは言った。
身寄りがなければ、例えば肩がこればマッサージ代がかかる。クルマのタイヤ交換でも手間賃がかかる。子供を預けるにも保育料がかかる。
これが私の場合だと、面倒くさがりながらも家内が肩腰を揉んでくれる。義弟がタイヤ交換してくれる。子供は爺婆が面倒をみてくれる。
これらを「外注」すれば、その費用はばかにならない。これは拡大家族だからできる強みだ。
拡大家族とは、核家族の反対側の概念で、要は三世代同居とか集住などをいう。
昔の家族は、三世代どころか叔父さんや知人の子供、さらには下宿人なども同居したというケースがざらにある。
いま水面下で進んでいるのは、こんな拡大家族化である。
たとえばシェアハウスなんてその好例だし、ゲイカップルもそういう範疇に入るのではないか。
同じ趣味の人たちが寄り集い、生活をともにするという動きもいずれ一般化するのだろう。
しがらみの煩わしさを避けて、都会で気ままな単身生活を楽しむことを望んだ人びとがいま、孤独死に直面するなど、核家族戦略のほころびが随所に現れてきている。
とはいえ、こうした流れに乗るには体質レベルで変革しなければならない。
まず必要なのがコミュニケーション能力だ。ついで忍耐力も不可欠だ。
身内とはいえ、他人と暮らすには、当然ストレスがともなう。独り暮らしの気楽さに慣れてしまうと、集団生活はかなりきついものに感じられるからだ。
その昔、「ひとりで生きていける力」なんてものが尊ばれたが、いまやそんなことはたやすい。
これからの時代において、必要とされる能力とは「10人で生きていける力」なのである。
posted by 雄峰 at 11:53| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160314】その昔は、カネが「ない」という理由で結婚したものだ。

その昔は、カネが「ない」という理由で結婚したものだ。昭和30〜40年ころと考えてもらっていい。
それがいまや、カネがないから結婚できないという。
その間にいったい何があったのか?
それは「結婚の商品化」である。
古巣リクルートは高額商品を扱う。住宅、クルマ、就職、旅行、そして結婚だ。
高額商品を購入する際は、誰でも動揺する。そこでリクルートはミドルマンとして売り手買い手の仲介業を担ってきた。
結婚をはじめ、高度経済成長期を経てありとあらゆるものが商品化されてしまった。
その流れのなかで、我々自身も消費者として飼い慣らされた。
「賢い消費者」なんて呼ばれたら、私なら穴があったら入りたいが、世間ではそうでもないらしい。
気の利いたサービスや商品を購入した様子が嬉々としてフェイスブックで公開されているのをみてもそれはあきらかである。
こんな時期に、家族の解体は進み、核家族化が進展した。
核家族とは、いうならば「消費主義家族」ということになる。
各人ばらばらに買い物を楽しむ。何かを生み出すというより、何を買うかに軸足が置かれた人間関係だ。
それぞれが日銭を稼ぎ、入り用の物を購う。江戸時代の長屋暮らしの単身者の暮らしぶりに近い。
そんな「その日暮らし」は、高度経済成長期およびその余韻期においては成り立った。
だが、本格的な停滞期(私は「成熟期」であるとみているが)においては立ち行かないと思われる。
なぜなら、稼ぎにくくなる一方、鵜の目鷹の目の収奪システムが整備され尽くしたからだ。
「寂しい人はカネがかかる」
番組でこんな発言をしたのは、かの木村剛さんだ(その後、どうなったのかな)。
ーー今日はここで力尽きた。つづきは明日にでも。しからば今日はこれにて御免。
posted by 雄峰 at 11:52| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160313】待機児童、老人ホーム、子育て環境など、新聞が騒いでいる社会問題とは、たいてい都市の核家族の問題である。

待機児童、老人ホーム、子育て環境など、新聞が騒いでいる社会問題とは、たいてい都市の核家族の問題である。
もっといえば、当の新聞記者が困っている案件である。
そんな記事を目にしているうちに、それらが特に問題になっていない地方在住者まで、我が事であると錯覚してしまっている。
アメリカ大統領選挙などいい例だ。
毎度、選挙前には「誰それが選ばれたら、日本は厳しい立場に置かれる」とか言われるが、そんなこと過去にあっただろうか。
せいぜいニクソンのときくらいではないか(同時代で体験はしていないが)。
オバマのときもさんざん言われたが、我々の生活にはさしたる影響はなかった。
毎回こんなものなのである。マスコミは危機感を煽って、記事を読ませようとする。彼らはそれが商売だからそれでいい。
だが、実生活者たらんとするならば、そんなものに無用な興味を持たないことだ。
アメリカ大統領選挙にいらぬ関心を持つより、自分の目の前の課題解決に全力を注ぐのがダンディである。
いい歳のおやじが余事にかまけているほうがよっぽど国難といえよう。おのれの一隅を照らすことだ。
というあたりで力尽きた。
要は「情報」に淫していると、家庭戦略を誤ると言いたいのである。
つづきはあすにでも。では、これにて御免!
posted by 雄峰 at 11:50| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【160312】家の話ばかりしているのは、これは家庭戦略と密接に関わるからである。

家の話ばかりしているのは、これは家庭戦略と密接に関わるからである。
要は「持ち家」幻想に囚われているから戦略を誤るのである。
持ち家にこだわるのは、たいてい奥さんだ。
彼女らが「安定」を第一の価値であるとするのは、その生物的および社会的役割からして当然ともいえる。
ちなみに、女親は「子供=弱者」としてとらえるのが一般的であり、男親はそうではない傾向があるといわれる。
これが男の子の子育てをしくじる最大の要因だろう。
男の子は「弱い者」として育てられると、本当に弱くなってしまう。
こんな自己防衛を基軸として家庭戦略を立てると、「持ち家」に走るのは当然だ。
ローンに手を染めても家を買いたいという衝動にいかに打ち勝つか。その思想をいかにして持つか、これが、これから家庭運営者(むろん単身も含む)には不可欠な課題なのである。
余談だが、かくいう私も現在銀行から4000万円あまり借りている。
建物の建築費であることを考えれば住宅ローンと似ているが、その本質はまったく違う。これについてはいずれふれることになるだろう。
私が言いたいことは、一概に銀行機能を否定しているわけではないことだ。本稿を読み進める上で、いらぬ誤解を招かないためにあえて言及した次第。
つづきはまた明日にでも。しからば御免!
posted by 雄峰 at 11:50| 落人日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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